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第1話 宝物館の向かいの民家の軒先(のきさき)に身を伏せた [ミステリー小説]

序章

瀬戸内海に浮かぶ周囲約30kmの小島は、歴史に登場する以前から、神の島 として人々の信仰の対象であった。太古より深い森に覆われ、その頂(いただき)は須弥山(しゅみせん)に喩(たと)えられ、弥山(みせん)と呼ばれ、静かな内海に浮かぶその小島は、女神の寝姿として、今もなお、島全体が神として崇(あが)めらている。その、女神の横たわる裾(すそ)の尾根は博打尾(ばくちお)と呼ばれている。

2005年(平成17年)9月 広島県 宮島

 その尾根を、霧雨の中、登っている男がいた。神田龍一(かみたりゅういち)がこの尾根を登るのは30年ぶりだ。こんな気持ちになったのは、学生時代の暴力団襲撃事件以来だ。それにしても、あの男の狙いはなんだったのか。

 あれは、観測史上最大の大型台風の襲来に備えて、神社と回廊の見回りをしていた時だった。すでに、台風は九州に上陸し、九州各地に甚大(じんだい)な被害を与えながら山口県地方に向かっていることが報道されていた。

 「タイミングが悪いな」と、神田(かみた)は思った。このままだと、台風上陸と大潮の満潮時間が重なってしまう。山口県に上陸したら、風向きは宮島にとって最悪となる。さらに、気圧が下がって、潮位も上がり、過去の大型台風被害どころの騒ぎではなくなる。

 神社、市役所、観光推進協会、消防団、島民ら合わせて300人以上が台風襲来に備えていた。すでに、やるべきことはやった。回廊の床板ははずし、神社の屋根はロープで補強した。要所、要所は板で補強をした。もう、神に祈りつつ、台風が過ぎ去ってくれるのを待つしかなかった。

 風も強くなり始めた午後9時過ぎ、神田(かみた)は合羽を着て回廊に向かった。これ以上風が強くなったら、外に出ることは出来ない。最後の見回りにするつもりであった。もう、外には誰もいないはずであった。先ほどまで、テレビの実況をしていた放送局のスタッフたちも、引き上げて、旅館、ホテルに待機している。

 合羽のフードをつかみ、顔を伏せて進んでいる時、一緒に見回りに出た渡辺が叫んだ。
 「神田(かみた)さん、アレ」渡辺が、顎(あご)で指した先を大柄の男が足早に進んでいた。よこなぐりの雨と、波しぶきで、すぐに見えなくなった。

 「島の人間ではない」と直感した。こんな状態の中を出歩くものなどいるはずがない。それに、「あの格好はなんだ」と、神田(かみた)は思った。男は素っ裸であった。


 「おーい!!」
 神田(かみた)は男の姿が消えたほうに向かって叫んだ。そして、顔を左下に向け、塩気を含んだ雨水を「ペッ!!」と吐き出した。

 男に聞こえたかどうかは分からない。しかし、このままにしておくわけにはいかない。神田(かみた)は、渡辺と共に後を追った。神社の裏を通り抜けた。このまま行くと宝物館に出る。雨と風がさらに強くなってきた。男の姿は見えない。

 「どこ、行ったんでしょう?」渡辺は叫んだ。そして、
 「家に、何か取りに帰ったんじゃないでしょうか?」と続けた。
 この通りの住民には避難勧告が出て、公民館に避難している。そのうちの誰かが、何かを取りに帰ったのではないかと言うのだ。

 「いや」
 「違う」と神田(かみた)は確信していた。あの体つきは日本人ではない。背はゆうに190センチは越えていた。頭の大きさ、肩幅、それに、手足の長さは日本人のものではない。
 「何をしているんだろう?」

 渡辺に、市役所に待機している警察に連絡をとるように指示をした。そのとき、宝物館(ほうもつかん)の方向で、チラッと明かりが動くのが見えた。渡辺は、携帯電話を取り出したが、雨に濡れて使い物にならない。

 「どうしますか?」
 渡辺は神田(かみた)に聞いた。
 宝物館には国宝、重要文化財が所蔵されている。広島県の国宝の大多数はこの宝物館にあるといっても過言ではない。
 「火事場泥棒ってやつでしょうか?」
 渡辺は、合羽のフードを掴みながら、神田(かみた)に体を押し付けるようにして言った。


 「だとしたら、これは警察にまかせるしかない」
神田(かみた)は、渡辺に、市役所に戻って警官を呼んでくるように言った。

 「神田さんは?」
 「俺はこのまま、ここで見張っている」
 「分かりました。気をつけてくださいよ」
 「ああ、そっちもな。それと、一人、二人の警官じゃダメだぞ」と、神田は付け加えた。

 あの体つきだ。抵抗されたら、「相当てこずるに違いない」と、神田は思った。
 渡辺は、来た時とは違って、風に背中を押されるようにして市役所の方向に向かって行った。黄色の合羽は、あっという間に見えなくなった。
 神田は宝物館(ほうもつかん)の横が見えるほうへ移動した。
  「あそこから入ったのか」

 宝物館の側面の上部の明り取り窓が壊されていた。壁には丸太が立掛けられ、それを足場にしたようだ。すでに、警報装置は働いているはずだが、この台風ではそれもあてにできない。
 神田(かみた)は念のため懐中電灯の明かりを消して、宝物館の向かいの民家の軒先(のきさき)に身を伏せた。

続く>>>
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第2話 自衛隊東部方面総監部へ乗り込み、割腹して果てた [ミステリー小説]

1972年(昭和47年)10月 広島 

 神田龍一(かみたりゅういち)は高校を卒業し、広島市内の修道館大学(しゅうどうかんだいがく)へ進学した。その頃は、学生運動も下火になりつつあったが、それでも、神田(かみた)の通う大学は学生運動の急進派の核となっていた。

  神田(かみた)は彼らとは、一線を画し、いわゆる「ノンポリ学生」であったが、ただひとつ、高校時代から熱心に取り組んでいたのが、日本拳法だ。神田(かみた)は幼い頃から体が大きく、高校生の頃には185センチに達していた。大学に進学すると、教室よりも拳法部の道場にいる時間のほうが長く、大学の2年生になった頃には、その体を活かして繰り出す、頭部への横蹴(よこげ)りに敵(かな)う相手は西日本にはもういなかった。しかし、全国大会に出場する機会はやってこなかった。

 修道館大学は、日本拳法西日本大会で団体優勝を勝ち取り、神田(かみた)は個人優勝した。
 「よーし、次は、全国制覇だ」
 部員の気持ちも高揚し、その打ち上げを終えて、市内の繁華街を部員と歩いていた時、部員の一人の体が駐車していた車のミラーに当たった。相手が悪かった。

 その車に乗っていたのは、当時、広島市内を牛耳(ぎゅじ)っていた暴力団「大木会」の会長の息子であった。「若」と呼ばれていた仁一郎(じんいちろう)は、父親である会長から溺愛(できあい)され、当時は縄張りのひとつを与えられ、勝手し放題の、いわば、絶頂期であった。

 「おい」後部座席のドアを少し開け仁一郎は言った。
 「どういうつもりじゃ」
仁一郎(じんいちろう)は、部員を呼び止めた。
 「あっ、すみません」
 部員全員が、「まずい」と思った。
 「もうしわけありません」
 部長の山口大河(やまぐちたいが)が一歩前に出て、頭を下げた。
 しかし、それくらいで、引き下がる相手でないことは山口にも分かっていた。


 車から降りるなり、仁一郎は左頬に薄ら笑いを浮かべ、
 「指ィ、詰めーや」と言い放った。
 「郷戸(ごうど)、ドスを出せィ!!」目は山口に向けたまま、顔を後ろの用心棒たちに向けた。
 そして、仁一郎は両手をポケットに突っ込んだまま、ポケットの中の小銭を「チャラチャラ」と揺らした。

 仁一郎(じんいちろう)の後ろには、用心棒が3人立ち、そのうちの一人は、すでに、朱塗りの木刀を右手に垂らしていた。その男の額には赤いタオルが巻かれていた。郷戸(ごうど)と呼ばれたその男は、懐(ふところ)から白鞘(しらさや)のドスを出して仁一郎に渡した。通行人がいっせいに広がり、大きな輪を描いた。

 その輪の中で、山口は、再び、
 「もうしわけありませんでした」と頭を下げたまま言った。頭を下げ、仁一郎と用心棒の足元から自分との距離を測った。
 さらに、膝(ひざ)をつき、土下座をした。神田(かみた)を始め、部員全員が山口に倣(なら)って土下座をした。

 仁一郎は、山口の頭を右足で押さえつけた。押さえつけながら、
 「学生の分際でわしのシマを歩くのは十年早いんじゃい」と、さらに足に力をこめた。
 押さえつけられながら、「どうやってこの場を納めるか」を山口は考えていた。部員は12名、相手は仁一郎を含めても4名。殴り合いになれば山口ひとりでも一瞬にして3人は倒せる。ただ、赤い木刀を持った男には、部員全員でかかっても「手間取るかもしれない」と、感じた。

 神田(かみた)も、山口の半身(はんみ)後で土下座をしながら、木刀を持った男の動きだけに注意を払っていた。

 部長の山口は、
 「ここは逃げるしかないか」と、思った。
 押さえつけられたまま、後ろで土下座をしている部員に目配せをした。神田(かみた)も山口の考えが分かった。

 山口は、歩道についていた左手で仁一郎の右足を払い上げ、同時に、
 「逃げろ!!」と叫んだ。
 仁一郎は、右足を大きく空(くう)に上げ、両手をポケットに突っ込んだまま、仰向(あおむ)けにひっくり返り、背中から水溜(みずたま)りの中に倒れこみ、ポケットの小銭が車道にばらまかれた。


 山口と神田(かみた)は、土下座の姿勢から、倒れた仁一郎の横をすり抜け、姿勢を低くして野次馬たちの脇の下を通り抜けた。山口と神田の場合、土下座の姿勢から立ち上がり、体を反転させて、用心棒たちと逆方向へ走るよりも、彼らの脇を、仁一郎を楯(たて)にした形で走り抜けるほうが無難な方法であったのだ。

 他の部員たちは、用心棒たちとは距離があったので、いっせいに、逆方向へ走り、ばらばらに走り去った。

 用心棒の朱塗りの木刀は一瞬にして左手に移され、横へ払われたが、倒れた仁一郎が邪魔をして、山口の肩先をかすめただけであった。
 野次馬の脇を駆け抜けるときに、神田(かみた)と用心棒の眼が一瞬合った。

 他の二人の用心棒は仁一郎のところへ駆け寄り、「若、若ァ」と声をかけるのが最初の行動であった。
 仁一郎は、倒れたとき、頭を車のバンパーにしたたかに打ちつけ微動だにしなかった。
 用心棒は、
 「馬鹿たれーっ、見せもんじゃないどぉ!!」と、野次馬を手と足で払い散らし、仁一郎の体を抱え上げたが、仁一郎の顔から、すでに、血の気は失せようとしていた。

 用心棒は、左手に持った木刀を、横に払った形のままで、姿のない、山口と神田の逃げた先を無表情のまま追っていた。

 この夜の、学生と暴力団とのトラブルは、翌朝には誰も憶えていないほどの、ささいなことであったが、5日後には、この夜のことが引き金となり、全国的に三面記事のトップを飾るニュースとなった。

 暴力団が大挙して、大学に乗り込んできたのだ。


 仁一郎は、用心棒たちによって、大木会の本部に運び込まれた。大木会の本部は、広島市内にある丘の頂上にそびえたち、まるで要塞のような建物である。
 すぐに、お抱えの医者が呼ばれたが、やがて救急車によって近くにある大学病院へと搬送された。

 「郷戸(ごうど)、お前がついていながら、どういうことじゃ」
 大木会の会長、大木鷹男(おおきたかお)は集中治療室の前で、痩せぎすで長身の男を睨(にら)み付けた。
 「お前の木刀でもダメだったか」
 太い眉の下の眼を、再び、力なく横たわる息子の顔に落とした。

 郷戸(ごうど)と呼ばれた男は、壁に背をもたれさせ、タオルを巻いた頭を壁につけ返事をしなかったが、二人の用心棒たちは、頭を下げて、小さくなっていた。

 3日間こん睡状態は続き、医者は、回復には「時間がかかる」ことだけを鷹男に告げた。
 鷹男は医者の言葉の意味することをすぐに理解したが、もし、仁一郎にも意識があるなら、これまで、父親の権力と金の力に守られ、育てられた自分の無力さを悟ったことであろう。
 すでに、学生の身元は分かっていた。
 「このままにしてはおけない」
 たかが学生に転がされて、大木会の2代目が意識不明のまま、万一のことがあっては全国の暴力団の笑い種だ。もうじきこの一件は全国に広まるだろう。


  乾いた竹刀(しない)の打ち合う音と、甲高(かんだか)い気合の合間から怒号(どごう)と悲鳴が聞こえてきた。面をかぶったまま、木野花咲姫(きのはなさき)は道場の窓から覗(のぞ)くと、工事用の大型ダンプが大学正門から入り、何か月も前から「授業料値上げ阻止」と書かれた立て看板を突き破り、そのまま、看板の一部を引きずりながら本館の裏へ向かっているのが見えた。同じ型のダンプが2台、後(あと)に続いた。荷台には、作業者風の男達がすし詰めに乗っている。最初は、事故だと思ったが、どこか違う。よく見ると男達は、手に手に木刀や、棍棒、鉄パイプ、竹ざお等を持っている。

 何が起こっているのか分からなかった。すぐに裸足(はだし)のまま駆け出したが、何かを感じ、すぐに引き返して、運動靴を履き、手にした竹刀を木刀に替えて再び飛び出た。途中、何人かの部員も道場へ引き返していた。
 「何があったの!?」
 「わかんねー!!」男子部員は叫びながら道場へ引き返していった。

 一般学生は授業が終わり、バイトか、デートで校内には多くは残っていない。熱心な学生は図書館で学習している時間だ。今いるのは、教授と職員、それに、木野花咲姫(きのはなさき)のようにクラブ活動に精を出しているものだけだ。


 第一グラウンドへ行くと、ダンプは野球部員を蹴散(けち)らし、最初の一台が、ピッチャーマウンドに停車したところだった。最近の日照りで、埃(ほこり)が舞い上がっていた。気象台は、今日は雨になる予報を出していたが、咲姫(さき)は、前を走る男子部員達の袴(はかま)が巻き上げる砂埃を見て「今日もまた外れそうだ」と、思った。

 続く二台も距離をおいて、グラウンドの周囲に向かって扇型に停まった。
  グラウンドの周囲にはプレハブで作られた部室が並んでいる。

 やがて荷台に乗っていた男達がばらばらと降りてきた。降りるたびに埃が舞い上がる。男達の風体は様々であった。アロハシャツに白ズボンにセッタ履きという、典型的なチンピラ風の男もいれば、黒のスーツにサングラスのやくざスタイル、タオルの鉢巻に上半身裸の男もいる。その男達の手にはそれぞれ、何らかの得物(えもの)が握られていた。あるものは木刀を振り回し、あるものは、竹やりを突き出していた。はだけた腕や肩の刺青が汗で光っている。

 「こういうのがヤクザの出入りというものなのかしら」咲姫(さき)は、ぼんやりと思いながら、大きく離れた学生達の円の中からそれを眺(なが)めていた。

 一台目の運転席から二人の男が出てきた。
 一人が叫んだ。
 「拳法部の野郎共、出てきやがれッ!!」
 「これで、分かった」咲姫(さき)は、何日か前の、日本拳法部と大木会のトラブルを噂で聞いていた。


 「出てきやがれー」男は叫んだ。
 遠巻きに見ていた学生の間から一人の学生が進み出た。学友会会長の神代陽平(こうじろようへい)だ。神代(こうじろ)は、新聞部の部長である。
 神代(こうじろ)は、アジで鍛(きた)えた太い声で、
 「あなた方の要求は、校外で聞く」と、叫び、そして、
 「あなた方は今、学校の自治を犯している・・・」と続けたとき、「ビューッ」と石が飛んできて、避ける間もなく、神代(こうじろ)の額に当たった。

 額からは血が流れ出た。
 「何をする!!」
 神代(こうじろ)の後ろから新聞部の一人が叫んだ。
 「うるせーッ、警察がくるまでに話をつけよーぜ、拳法部!!」
 「指一本ですむんだよー!!」
 
 日本拳法部の山口大河(やまぐちたいが)が神代の肩を引いて前に出た。
 「おー、お前かー」
 「お前の指一本で済むことじゃ」
 山口は覚悟は決めていた。
 「この場を収めるには俺の小指を落とすしかないか」
 左小指の付け根にバンテージを巻きながら前へ進んだ。


 本館から数名の職員が、背広の裾とネクタイを風になびかせながら駆けつけたが、
 「いったい何事ですか?あなた方はなんですか?」と、遠くから叫ぶしかなかった。
 男たちは、それには耳を貸さず、男はドスを山口の前に投げた。

 山口は、投げられたドスの前に跪(ひざまず)き、左手で鞘(さや)を握り、右手で柄(つか)を持ち、手前に引いた。ためらいはなかった。一瞬、夕陽で刃(やいば)が光った。時が止まったようであった。夕陽が本館の窓に大きく映っていたのを木野花咲姫(きのはなさき)は今でも覚えている。

 風が吹き、砂塵が大きく舞った。
 男達も学生達も、一瞬目を細めたその時、学生達の輪から風と共に走り出て、山口を跳び越した男がいた。「あっ」と、咲姫(さき)が思ったそのときには、ドスを投げた男は頭を右へ傾(かし)げたまま吹っ飛んでいた。神田龍一(かみたりゅういち)の横蹴りであった。


 吹っ飛んだ男の体が地面に落ちる前に、神田(かみた)の左裏拳(ひだりうらけん)は左側の男の顎(あご)を砕(くだ)き、右上げ蹴りで右の男をくの字にへし曲げた。一瞬の業(わざ)に、男達は、ばっと、輪を広げたが、神田が素手だと分かると、次々に、神田にかかっていった。

 神田(かみた)は立ち上がった山口と共に、男達の竹ざおや、棍棒(こんぼう)、木刀などをかわしながら、一人、二人と、確実に倒していった。大柄の神田(かみた)と小矩(しょうく)ながらもスピードのある連続技が持ち味の山口の二人は、他の大学の拳法部からは、「牛若と弁慶」と呼ばれている。今、その二人が、150人を超える荒くれ男どもを相手に戦いをはじめたのだ。
 後に「暴力団と学生の大乱闘事件」として海外メディアも取り上げた事件の始まりである。
 
 いくら、「牛若と弁慶」でも「限度がある」と、咲姫(さき)が思った時、男達は、学生達に向かって得物(えもの)を振り上げながら、いっせいに向かって来た。そして、男達の一団が、剣道部員のいる方向にも近付いて来た。
 咲姫(さき)に向かって、男の一人が棍棒(こんぼう)を振り下ろした。もう迷っている暇はない。咲姫は、木刀で、その棍棒を左へ払い、返して、胴を打ち込んだ。加減をしたつもりであったが、男は、あばらを押さえて、右膝(みぎひざ)から崩れ落ちた。

 学生達の一部は、新聞部の部室になだれ込んだ。新聞部の部室の床下には、鉄パイプと、角材(げばぼう)が隠されていることは、学生達の間では、公然の秘密であった。さらに、新聞部の部室の裏には、学園祭にかこつけて入手した長尺、3、6m物の角材の束が何束も立てかけてあった。

 「輪を崩すなーッ」 神代(こうじろ)は、額からの血が首筋に流れ込むのを感じながら叫んだ。3年前の「新宿駅騒乱事件」の記憶が一瞬よみがえった。

 今の状況なら、「男達をつぶせる」と思っていた。
 男達は、学生達の輪に取り囲まれた形になっている。これで、バラバラになっては学生達に不利だ。
 「輪を崩すなーッ!!」
 再び、神代は、顎(あご)を上にして、首を回しながら、声を張り上げた。

 最初に、突っ込んできた男達に、学生達は、棍棒(こんぼう)、竹竿(たけざお)で体を打たれながらも、後ろに下がらず、懐(ふところ)に飛び込んで男達と組み合った。その学生達のほとんどは、柔道部、空手道部、少林寺拳法部、ボクシング部などの部員達である。様々な気合と共に、男達は投げ飛ばされ、打ち据えられていった。

 新聞部の部室から運び出された角材や鉄パイプは手渡しで学生達に回されていき、学生達は、その、角材や、鉄パイプを、輪の内側に向け突き出したり、地面を叩いて、男達を威嚇(いかく)した。
  大きな人間の輪の中からもうもうと砂塵が舞い上がり、まるで、火山の噴火口の様(さま)となり、さらに、その輪の中には、小さな輪があり、その人間の輪が、右に左にと動いている。その中にいるのは、日本拳法部の「牛若と弁慶」の山口と神田(かみた)である。輪から、一人、二人と男がはじき出されている。輪の中のふたりが、男達を倒しているのだ。
 「あのふたりを連れ戻さなければならない」神代(こうじろ)が思った時、 ビュン、ビュン、と硬球が中の男たちに向かって飛んで行った。野球部員が次々と硬球を投げつけ始めたのだ。 
 山口と、神田を囲んだ輪が一瞬ゆるんだ隙に、二人は全速で、外に向かって走り、外に向かっていた男達の頭上を跳び越した。



 この間にも、木野花咲姫(きのはなさき)達、剣道部員は、男達と戦っていた。ここでは、女子長刀(なぎなた)部員の長刀(なぎなた)が男達の足を次々と砕(くだ)き、男達をへたり込ませていた。
 咲姫の小手、面の二段打ちも面白いように決まり、男達は棍棒や角材を投げ捨て、苦痛にゆがんだ表情を浮かべて、打たれた箇所に手を当てている。しかし、その男達を押しのけて、次から次へと新手(あらて)が押し寄せる。
 男達の、振り下ろし、振り回す、棍棒や竹ざお、鉄パイプに木刀で対戦するのは不利だが、咲姫は、それらを、ひらり、ひらりと、難無くかわしながら、甲高い気合と共に、目にもとまらぬ早業(はやわざ)で、踏み込んで、得意の面を打ちに行った。
 この面で、咲姫は中四国女子学生チャンピオンになったばかりであった。



 これまでのところは、状況は、学生達が有利であった。この時間には、一般学生は、授業も終わり、すでに校内に姿はない。校内に残っている学生達は、何らかの部に属しているものたちばかりである。そして、今、暴力団と戦っている学生達の大部分は運動部に所属している者達だった。運動部に所属している学生達の連帯意識は高かった。
 そして、その学生達の指揮を執っているのが、新聞部の部長、神代陽平(こうじろようへい)である。神代は、学生達に一目おかれた存在であった。

1968年(昭和43年)アメリカは50万人の兵隊をベトナムに送り込んでいた。1月には、アメリカ海軍空母エンタープライズが佐世保へ入港し、日本のベトナム戦争前線基地化は拍車をかけ、アメリカ軍は、3月、南ベトナムのソンミ村で老人、婦女子ばかり500人以上を虐殺した。そうした状況の中で、日本政府は、ベトナムに向かうアメリカのジェット戦闘機の燃料を中央線を使って横田基地へ送ることを認めた。

 学生達は、ジェット燃料輸送阻止のため、10月21日国際反戦デーのこの日、全国から、新宿駅に集まった。神代もその中にいた。
 神代は「革命前夜」になることを願っていた。あちらこちらで、火の手が上がり、催涙ガスと投石は「革命」の前兆に相応(ふさわ)しいものだと神代(こうじろ)には思えた。
 しかし、実態は、程遠いものであった。神代や学生達の思い込みは一般大衆からの支持を得ることはできず、大衆から非難の声さえ聞こえてきた。また、神代自身も、民衆の支持のない学生運動の限界を、このとき初めて感じた。

 催涙ガスでうずくまる神代に機動隊員の警棒による打撃は容赦(ようしゃ)なく振り下ろされた。気を失いかけた時、背広姿の若い男にようやく助け出されて、その男の差し出した赤いタオルで額を押さえながら新宿駅構内に逃げ込んだ。新宿駅構内では、停車中の電車に火が放たれ、電車は、めらめらと燃え上がり、鼻をつく異臭が充満していた。

 神代(こうじろ)の眉間にはすでに、この時に機動隊から受けた警棒の傷があった。 学生達には、神代の額の傷は輝いて見えた。今また、その傷口が、暴力団の投石によって広がったのだ。



  ダンプカーの荷台が大きく揺れて、巨大な男が上半身むき出しで降り立った。跳び下りた足元からは、砂塵が舞い上がり、さらに、その大男は荷台から、まだ、皮もはいでいない、直径が、30cmほどの丸太を引きずり出し、肩に担いで、学生達の輪の一角に向かっていった。遠目にも、男の巨大さが分かり、学生達は動揺した。男の盛り上がった肩とはちきれんばかりの胸の筋肉には圧倒的な威圧感があった。

 男は、4m近い丸太を振り回し始めた。振り回すたびに、ブン、ブンと音がし、木屑(きくず)が飛び散った。大男が向かっている学生の輪が崩れ始めた。陸上部の槍投げ選手が角材を投げ、それに続いて、次々と、他の学生も、角材を大男に向かって投げ始めたが、大男は、体に当たる角材をものともせずに学生達に向かっていき、ついにその、振り回す丸太は、学生達をなぎ倒し始めた。倒れた学生を足蹴(あしげ)にしながら、大男は前進している。

 「戦場で、歩兵に向かう戦車だ」
 そう思いながら、神代はその大男の向かう先へと走った。

 学生達の崩れた輪の間から日本拳法部部長、山口と神田(かみた)が現れ、大男の前に立ちはだかった。山口と神田(かみた)は、はだけた胴着を合わせ、帯を締めなおし、お互いの距離を4m開け、大男から5mの距離を空けて大男に対峙(たいじ)した。



 大男は、丸太をブンブンと振り回しながら、右と左に分かれて立つ山口と神田(かみた)をギロリと見やり、小柄な山口の方へと足を踏み出した。神田はそれを待っていた。バッ、と胴着を風に鳴らし、地を蹴り、大男の首筋に横蹴りを見舞った。大男の首筋から汗が飛び、一瞬ぐらついた。その隙を狙って、山口は連続直突と横打ちをわき腹に打ち込んだ。そして、横に回転しながら、脇を抜けて、男の後ろに逃げ込もうとした。しかし、大男の丸太が、一瞬早く、回転する山口の背中をとらえ、山口を弾(はじ)き飛ばした。神田は大男が丸太を山口に向かって振り上げた隙を狙って、わき腹の同じ箇所に左横突き蹴りを放ったが、大男が振り向きざまに振った丸太が神田の肩を殴打し、神田も地面に向かって倒れこんだ。

 山口と神田(かみた)は、倒れながらも回転し、大男から離れ、態勢を取り直し、再び、大男に向かおうとしたとき、
 「神田さん!!」と、後ろから声がした。

 相撲部主将の南幸吉(みなみこうきち)である。



 胸に修道館大学のマークの刺繍されたジャージを着て、まわし姿で南は立っていた。
 南は、角材を、束のまま両方の脇の下に一束ずつ挟み、その角材の一方の端は大砲のように大男に向けられている。
 「神田(かみた)さん、ここは俺に任せて、あんた達は他へ・・・」
 「すまんな」
 「この場は南に任せるしかないだろ」ふたりは、そう思いながら戦いの不利になっているところへと向かった。
 すでにあちらこちらで、学生達の輪は崩れて、個人戦の形になっている。

 南は、抱えていた角材の束を下へ落とし、着ていたジャージを「バッ!!」と脱ぎ捨て た。大男も、南の意図を察し、抱えていた丸太を軽々と投げ捨てた。そして、やっと己(おのれ)にふさわしい対戦相手を見つけた喜びで、にやりと笑い、額から流れ落ちる汗をぺろりとなめ、口の渇きを潤した。

 南も190cm、160kgの巨漢であるが、大男は、さらに一回りは大きい。その大男が、闘牛のごとく南めがけて突進してきた。南も、腰を落として、前のめりで大男めがけて突進した。お互いの距離は10m。あっという間に距離は縮まり、「ガッ!!」と、岩と岩がぶつかる音がし、汗と砂塵が舞い上がった。飛び散った汗が夕陽で光った。ぶつかった反動で、南は上体を起こし、大男の分厚い胸に速射砲のようにツッパリを放った。「バ、バ、バ、バンッ!!」大男の気勢が弱まった隙に、右手で大男のズボンを鷲掴(わしづか)みにし、左に身を回して投げを打とうとした。しかし、大男は、上から南を押しつぶすように被(かぶ)さってきた。大男の左手は南の右上腕を掴み、ぎりぎりと指を喰いこませ、右手は南の肩越しに後ろまわしを「ガッシ!!」と掴んだ。南の頭は、大男の胸の下に入り込んだ。



 夕陽が映る本館の5階の窓から、眼下で繰り広げられている闘いを眺めている男がいた。修道館大学学長、小森喜楽(こもりよしもと)である。学校職員達は警察に連絡する許可を学長に求めたが、小森は頑(がん)として拒否した。
 「学問の自由と、学校の自治独立は、官憲の介入で守られるべきものではない」
 それが、明治生まれの漢物、小森の信念であった。つい2ヶ月前には、ミュンヘンオリンピック、水泳種目へ出場する多口、本田、両水泳部員の壮行会で、赤ふんどし姿になって、ふたりに檄文(げきぶん)を読み上げたばかりである。小森は学生達の圧倒的な支持を得、また、小森自身も、学生達を全面的に応援、信頼していた。

 木野花咲姫(きのはなさき)は、ただ、ひたすら、男たちの振り下ろし、振り回す棍棒や木刀をかわしながら、面を打ち続けていた。その、咲姫の耳に「ドン、ドン」と大太鼓の音が聞こえてきた。
  「あの音は・・・」
 紛(まぎ)れもなく、修道館大学応援部の大太鼓の音である。音のする方向を、中段に構えながら、対峙(たいじ)する男の頭越しに見ると、本館屋上で団旗を翻(ひるがえ)す部員のそばには、いつもの、大太鼓を叩く応援団団員の姿があった。その前には、学生服姿に下駄履きの男が立っていた。修道館大学応援団団長の連山国男(れんざんくにお)だ。



 連山(れんざん)は両手に大根を持ち、「闘いの唄」を張り上げていた。壮行会で聴くいつもの歌だ。
 日本拳法部の山口も得意の連続突きを入れながら、神田(かみた)も蹴りを打ちながら、その太鼓の音を聞いていた。学友会会長、そして新聞部部長の神代(こうじろ)も夕陽に浮かぶ本館屋上を見上げていた。

 相撲部主将の南幸吉(みなみこうきち)は大男の下になったままだ。すでにこの体勢のまま5分はたっていた。最初の激突から、お互いの体勢は変わっていない。ふたりは、全身の力を出し続けていた。ふたりは、新たな技を出そうとはせず、ただ、力と力を出し切り、雌雄(しゆう)を決しようとしているのだ。相撲部員は、ふたりの闘いに邪魔が入らないように、ふたりを取り囲む輪を作り、固唾(かたず)を呑んで両者の闘いを見守っている。南の全身の筋肉がぶるぶると震え始め、ついに、南は、「ガクッ」と左膝を落とした。無理もない、あの200kgはあろうかと思われる大男が全身の力を出して、南の上にのしかかっているのだ。
 「あ、あーっ!!」相撲部員が悲痛の声を上げたとき、太鼓の音が響いてきた。



 応援団長の連山国男(れんざんくにお)は、のども裂けよとばかりに「闘いの唄」を歌い続け、太鼓を叩く部員も、バチよ折れ、皮も裂けよとばかりに、太鼓を叩き続け、団旗は千切れんばかりに振られている。唄も太鼓も、そして応援団旗も、いまや、相撲部主将、南一人のために向けられているのだ。

 「むおーっ!!」
巨大な背中から野獣の咆哮(ほうこう)とも思える声が上がり、さらに、南を押さえつける。ふたりの闘いを見つめる者たちには、何トンという重さが、南の肩にのしかかっているかのように思えた。
 大きな背中に大粒の雨が一粒落ちた。やがて、二粒、三粒と、雨粒が落ち始め、雷鳴と共に、大雨になった。2ヶ月ぶりの雨である。
 「ピカッ」と光った稲妻に、大男の背中が光った。

 「むおーっ!!」
 再び、大男が叫んだ時、大男の背中が、「ぐぐっ」と、わずかに持ち上がった。南が、その巨大な男を持ち上げようとしているのだ。
 雨は、ますます激しさを増し、海辺に近い修道館大学のグラウンドは、一面水浸しになってきた。
 南に覆(おお)いかぶさる大男は眼を剥(む)いて全身に力をこめている。しかし、「ドン、ドン」という太鼓の音と共に、南の膝は徐々に伸び、全身の筋肉は、隆起し、血が噴き出さんばかりに赤くなっている。

 「ドドーン!!」
 雷鳴と共に、南は、ついに、大男を肩で担ぎ上げた。
 「おおーっ!!」という声が周りから起こった。
 暴力団の男達も、学生達も、今や、このふたりの闘いを見守っている。
 大男は、信じられないという顔で南を見つめながら、それでも、地面に足をつけようとしてもがいる。
 南の体は仁王のように膨れ上がり、足を一歩踏み出した。雨は降り続き、グラウンドは田んぼのようになっている。南の足は、泥沼となったグラウンドに10cmは埋まり込んだ。

 「ビシャッ」一歩、「ビシャッ」また一歩と、南は、大男を担いだまま、歩(ほ)を進めた。その後ろには、穴となった足跡が残り、雨が流れ込み渦を作った。
 再び、「ピカッ」と光った稲妻の中で、ついに南は、両手で男を持ち上げ、「ドカーン」という雷鳴と共に、大男を、ダンプめがけて投げつけた。大男は肩でダンプの前部を壊し、そのまま泥沼と化したグラウンドに頭から落ち、悶絶(もんぜつ)した。大きく開いた口に泥水が流れ込んだ。これが大男にとって最初の敗北であった。
 「おおーっ!!」という驚嘆と歓喜の声が、学生達から沸きあがった。
 学長の小森は、窓を開け、振り込む雨に打たれながらこの様子を満足げに眺めていた。木野花咲姫(きのはなさき)は、木刀を上段に構えたまま、感動で動けなかった。日本拳法部の山口は部員に肩を預け、右拳を天に突き出し、雨粒を打った。神田(かみた)は乱れた胴着を正し、南に礼を尽くした。

 「バーン!!」
 雷鳴とは違う音が鳴り響いた。大男が投げつけられたダンプから、一人の男が降り立ち、雨の降る空に向かって拳銃を発射したのだ。未だに意識の戻らない大木仁一郎の息子、隆伸(たかのぶ)である。
 「もう、容赦はいらん!!」
 「ぶっ殺してやる!!」
 銃口は、南に向けられ、引き金に指がかかった。

 「やめろ!!」
 ダンプの屋根の上に立つ長身の男が、雨音を切り裂くような太い声で言った。
 「俺たちの負けだ」
 頭に赤いタオルを巻きつけ、右手に赤い木刀を持った男の顔が、稲妻の中で白く浮かび上がった。
 「郷戸(ごうど)・・・!?」
 剣道部の木野花咲姫(きのはなさき)、新聞部の神代(こうじろ)、そして、日本拳法部の神田(かみた)、三人は同時に郷戸の名前を口にした。

 「なんでじゃァ!?」
 「ドカーンッ!!」「ゴロゴロゴロ・・・」
 隆伸の声は雷鳴に打ち消された。
 「引き上げだっ!!」
 郷戸の声に、男たちは体を引きずり、仲間を支えながらトラックの荷台に乗り込み始めた。倒れた大男は10人がかりで荷台に引きずり上げられた。
 「ま、待てェ」
 「お、お前ら!!」と、隆伸は顔を赤らめ男達に叫んだが、所詮、隆伸も一人では何も出来ない男であった。



 ダンプは、後輪をスリップさせながらグラウンドを一周し、校門へと向かった。郷戸(ごうど)を屋根に乗せたダンプが、咲姫(さき)、神代(こうじろ)、神田(かみた)の前に来たとき、郷戸は、屋根を木刀で、「ゴンッ」と突き、停まるように合図した。

 「勝負はお預けだな」神田(かみた)に言った。
 「腕を上げたな」木野花咲姫(きのはなさき)に言った。
 「血を拭け」神代(こうじろ)にこう言って、額に巻いた赤いタオルを神代に投げた。

  体力を使い果たして、雨の中に座り込んだ南は山岳部の多良千月(たらちづき)に背負われて相撲部部室に運ばれた。多良は、その脚力を買われて、2年前の1970年、日本山岳会のエベレスト登頂隊の一員として、植村直己(うえむらなおみ)のエベレスト登頂をサポートした経歴がある。多良にとって、南を背負うことなどわけはなかった。山岳部部員の間では、当時、騒がれた、中国山地の「ヒバゴン」は、この多良のことではないかと言う噂があった。多良はエベレスト遠征に備えて、広島県と島根県にまたがる比婆山中で、連日、荷揚訓練(ぼっかくんれん)をしていたのだ。多良は、毛皮のベストを着て、毛の帽子をかぶり、毛の尻皮を腰にぶら下げて山中を歩いていたので、住民が見間違えたのではないかというのだ。



 郷戸(ごうど)は学生時代から天才剣士として全国に名をはせ、その、殺気を帯びた剣さばきにあこがれる者も多かった。木野花咲姫(きのはなさき)もその一人であった。しかし、その太刀筋(たちすじ)は日本剣道連盟からは邪道の剣として認めてはもらえず、全国大会に出場する権利は与えられなかった。郷戸の剣は、咲姫の、面を打ちに行く正統派の剣道とは違い、隙あらば、どこでも打ち、突き、反則と判定されることを恐れない「邪剣」であった。その頃の郷戸は自分が陰の道を歩んでいることを気付くには若すぎた。

 その剣の素質を見抜き声をかけてきたのは、三島由紀夫であった。三島は、時代が急速に旋回するのを憂(うれ)い、反革命の起爆剤となるべく「盾の会(たてのかい)」を結成し、その会員として郷戸を誘ったのだ。郷戸は、自分を認めてくれた三島のためには眠る時間さえをも削って動いた。
 1968年(昭和43年)「楯の会」結成後間もなく「新宿駅騒乱事件」が起き、三島は、会員と共に、この騒乱の視察をした。



  郷戸(ごうど)は、三島の命を受け、銀座から新宿へと回り、新宿駅の近くで、機動隊員に囲まれて、めった打ちにされている学生を見つけた。機動隊員に「楯の会」の会員であることを告げ、そして、学生を解放させた。学生に名前を聞かれ「楯の会の郷戸だ」と名乗り、学生の割れた額を赤いタオルで巻いてやった。

 「新宿駅騒乱事件」の視察の後、三島は、自衛隊の存在に危機感をつのらせ、2年後の1970年11月25日、「楯の会」会員4人と共に、自衛隊の決起を促すべく、自衛隊東部方面総監部へ乗り込み、割腹して果てた。
 郷戸(ごうど)は、事前にこのことを知らされず、尊敬する三島と共に死ねなかったことに落胆した。その後、警察の取調べを何度か受け、翌年には三島の支援者の政治結社のひとつに身を寄せ、やがて、暴力団の用心棒へと身を落とした。



 咲姫(さき)は木刀を左手に移し、他の部員と共に、濡れたポニーテールを揺らしながら道場へと向かった。神代(こうじろ)は郷戸(ごうど)が投げてよこした赤いタオルで割れた額を押さえたが、新宿の時と同じ様に血は流れ続けた。神田(かみた)は、拳法部の部室入り口に積まれたブロックの上に座り込み、天を仰いで、降り続ける雨を口に含んだ。雨はそのまま翌朝まで降り続いた。

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第3話 神の島を襲った60年振りの山津波であった [ミステリー小説]

 2005年(平成17年)9月 広島・宮島

 神田龍一(かみたりゅういち)は今、雨に打たれながら身をかがめて、この30年以上前の出来事を鮮(あざ)やかに思い出していた。その後、修道館大学の運動部は、全ての公(おおやけ)の活動には1年間参加できなかった。暴力団の大木会は広島県警の頂上作戦により、壊滅に追いやられ、郷戸(ごうど)は大木会の刺客に追われ姿を消した、と言う噂を聞いた。あの時、一緒に闘った仲間とは卒業以来一度も会っていない。そして、10年前からは宮島観光推進協会の仕事も忙しくなり、拳法の練習からは自然と遠のいていた。

 雨と風は一層激しさを増し、渡辺は、警察を呼びに行ったまま帰ってこない。神田(かみた)は、合羽(かっぱ)のズボンと上着を脱ぎ、着ていたシャツとズボンも脱ぎ捨て、体を動き易くし、肩を回し、拳(こぶし)を握り、広げ、屈伸運動を始めた。
 「今の俺は、あの男に勝てるだろうか?」



 宝物館(ほうもつかん)の壊された窓から男が現れた。男は、「スルッ」と、頭から回転しながら飛び降りた。飛び降りたそのままの姿勢で、片膝をついて、あたりを見回し、警戒している。やがて、すっく、と立ち上がった。頭はスキンヘッドで、素っ裸だと思っていた腰の前部分は、黒い小さな革か布の様なもので覆(おお)っている。大胸筋は発達し、手足の長い格闘家の体だ。雨にうたれて体は光り、男の体は一層大きく見える。改めてこうして見ると、2m近い長身だ。男は黒い巻物ののようなものを口にくわえ、こちらを獣(けもの)のように凝視している。

 「気付かれたか!?」
 神田(かみた)は、
 「今の俺には、この男は倒せそうもない」そう思ったが、ゆっくりと立ち上がり、男のほうへ一歩進み出た。

 「何をしている!!」
 返事はない。もう一歩、前へ出た。男は動かない。男との距離は6m。さらにもう一歩進んだ。男は動かない。
 「どういうつもりだ・・・」
 その時、宝物館の裏に黄色い合羽が見えた。渡辺が警官を連れて戻ってきたのだ。男はそれに気付いて「俺と警官達の距離を測っているのだ」と知った。神田(かみた)はジリジリと間をつめた。

 「何をしている!!」
 警官が3人、警棒を伸ばして、後ろから声をかけた。男は、それには何も答えず、神田のほうを見たままだ。三人の警官はお互いの距離をあけ、男を、神田と共に囲む体勢を作ろうとしたが、「バッ!!」と、それより速く神田に向かって駆け出してきた。神田は、身構え、警官は、男を追って、男の背中へ向かって走った。



 男は、神田(かみた)の手前2mで体を伏せ、「ビュン」と、体を伸ばしたかと思うと、後方へそのまま回転して、追って来た警官達の頭上を、背中を下にして飛び越した。警官達は、獣が頭上を飛び越えたかのように、思わず頭をかがめた。神田は、警官の間をすり抜け、着地した男に組み付いた・・・かのように思ったが、「スルッ」と、神田の腕は空をつかんだ。男は振り向きざまに左裏拳を放った。神田はかろうじて、左手で払い、体をかがめながら、得意の右横蹴りを放ったが、男はあっさりとそれをかわし、巻物のようなものをくわえたまま、左頬を、ゆるめ、「ニヤッ」と笑ったように思えた。男は、大聖院(だいしょういん)方向へ走った。大聖院は、真言宗御室派(しんごんしゅおむろは)の大本山であり、関西屈指の名刹(めいさつ)で、厳島(いつくしま)の総本坊である。このまま行くと、空海が修行した、霊火堂(れいかどう)、弥山本堂(みせんほんどう)を経由して弥山(みせん)山頂へと続く。

 「待てーっ!!」
 警官達は叫んだが、男は、あっというまに、強い横殴りの雨と、弥山から吹き下ろす強風の中に入り込んだ。神田(かみた)は、追わなかった。男の裏拳は間違いなく手加減されたものだった。得意の右横蹴りも難なくかわされてしまった。全く歯が立たなかった。

 その時、遠くから「メリ、メリッ!!」「ガガッ!!」という地を揺さぶるような音と共に、あたり一面に土のにおいが漂ってきた。



 大聖院と厳島神社をつなぐ通りは、小さな商店や民家が並ぶ、門前町のようになっており、その通りは、やがて、V字型の谷になり、谷に沿って、参道が弥山(みせん)山頂へとつながっている。その谷の上部から、雨と風の音に乗って、生木(なまぎ)を裂く音が聞こえてきた。地面は揺れ始め、腹に響く地鳴りが聞こえてきた。
 「逃げろー!!」
 「山津波(やまつなみ)じゃー!!」
 警官達が叫びながら、必至の形相で駆けてきた。
 茶色の巨大な生き物が、うねるように迫ってきた。その巨大な生き物の頭には、松の木が何本も生え、背中には大きな石のこぶが何個もある。狭い道を、獣と化した泥が、商店のドアを飲み込み、民家の玄関を押し破り、そのまま、頭は厳島神社へと向かった。神田(かみた)達は、間一髪で高台に逃れ、呆然(ぼうぜん)とその巨大な獣の背中を四つんばいになって見つめた。

 神の島を襲った60年振りの山津波であった。



 渡辺と警官達は、山津波がうねりながら白糸川(しらいとがわ)に流れ込み、あふれ出した泥と岩が道を埋め尽くすのを眺めるばかりであった。渡辺は、その後当分の間、海の波を見てもめまいを感じるほどの後遺症に悩まされた。
 神田(かみた)は山津波のやってくる暗闇を見つめていた。
 「あの男は、何者だったんだ」
 「あいつ、これに飲み込まれたかのう」警官の一人がつぶやいた。 
 「これに飲み込まれたら、助からんじゃろう」もう一人の警官が、うねる泥を見ながらつぶやいた。

 夜が明けて、被害の全貌が明らかになった。厳島神社は、前年2004年(平成16年)の台風18号では、重要文化財である厳島神社の回廊や左楽房が倒壊するなどかなりの被害に遭ったが、今回の台風14号では、幸いなことに、神社そのものへの被害は少なかった。しかし、神田(かみた)達が直接眼にしたように、雨による、土石流は、町に甚大な被害を与え、雨と風は、女神の肌に大きな傷跡を残した。



 その夜、神田(かみた)は自宅へは帰ることが出来ず、警官達に派出所で事情聴取され、そのまま、派出所で仮眠を取った。夜が明けてからは、宮島観光推進協会の事務所で、マスコミ、旅行会社など、各方面から、台風被害についての問い合わせや、実際の復旧作業の陣頭指揮に忙殺され、気がついたときには、日も暮れかけていた。事務所でやっと一息つき、コーヒーを飲んでいるとき、昨夜の警官の一人が、本署の刑事とやってきた。

 「やあ、神田(かみた)さん、お疲れさんです。こちらは、本署の高見さんです」
 「高見です。よろしくお願いします」
 「や、」と、高見と名乗った刑事は、既に、事務所内に陣取ってフェリーの改札口を見張っている二人の刑事に軽く手を上げて挨拶した。色黒で白髪交じりの短髪で、定年前の、いかにも叩き上げといった感じだ。宮島観光推進協会の事務所はフェリー乗り場の建物の二階にあり、改札口を行き来する人間のチェックに好都合の場所にあるのだ。

 「神田です。ま、どうぞ」と、椅子をすすめた。
 「昨夜はどうも大変だったようですね。いや、大筋は、彼から聞いているんですが」と、警官のほうを持ち出した手帳で指した。
 「高見さん、私はこれで・・・」警官は高見に敬礼し、神田にも軽く会釈をして去っていった。
 「彼も、昨夜から動きどうしだろうが・・・」と、疲れきった警官の背中を見つめた。
 「あ、ごくろうさん」刑事は、警官に言って、再び、神田のほうに向き直った。
 「で、土石流の現場から何か?」神田は、コーヒーを飲みながら立ち上がり、刑事のためにコーヒーを淹れた。
 「こりゃ、どーも」高見刑事は、カップを受け取りながら「男の遺体ってことですか?」と言った。
 「いや、まー、手がかりになるようなものとかは?」神田は、言葉を濁(にご)した。
 「今んとこは、まだ何も。ただね、さっき、宝物館(ほうもつかん)の館長に聞いてみたんですが、よく分からん、って言うんですよ」
 「よく分からん、とは?」神田は、椅子に腰掛けながら、尋ねた。
 「被害がですね。奴が忍び込むのに壊したガラス窓と、展示ケースのひとつが壊されていたということなんですが・・・」
 「金庫室は?」言葉をさえぎって神田は聞いた。
 金庫室には、国宝をはじめ、重要文化財が何百点も収納されている。「それが狙いのはずだ」と思っていた。
 「異常がないんですよ」高見刑事は背中を椅子の背もたれに預けた。
 「異常がない?あの男は、確かに、口に巻物のようなものをくわえていたけど、あれは、平家納経(へいけのうきょう)だと思ったんですけど」

 展示場には、通常、国宝級のものは、レプリカが展示されており、本物は、年一回の特別展にだけ展示される。「まさか、あの男、レプリカを盗み出したのでは?」だとすると、間抜けな話だ。
 「いや、展示されている、レプリカもそのままなんですよ」
 「え? じゃ、何が?」
 「それなんですがね」高見刑事は、腕を組んで、神田を見た。



 「何でも、戦後、GHQ(じー・えいち・きゅー)の命令で紅葉谷(もみじだに)で工事が行われたそうじゃないですか」高見は手帳を繰りながら言った。
 「ええ、終戦直後の1945年(昭和20年)の9月の枕崎台風(まくらざきたいふう)のとき、宮島も相当な被害をこうむりましてね」神田(かみた)はコーヒーを一口すすって続けた。
 「あの時も、今回と同じようなコースでしたしねェ。土石流の被害も相当出ましてね。今の紅葉谷公園(もみじだにこうえん)は、その復旧工事でできたんですよ。確か、工事は、その3年後から始まったと・・・」

 「そうらしいですね。館長さんもそういってました。で、その工事の時、鉄の棒が土砂の下から出てきたとか。ちょうど、巻物のような」
 「巻物?じゃあ、なくなったのは、その巻物だと?」
 「そうらしいんですよ」
 「それで、当時の工事関係者が、発見者ですがね、GHQには内緒で、こりゃ珍しいもんだと思ったんでしょうね。長い間、自宅に保管していて、その後、民族資料館が開館された時、展示品のひとつにと、寄付したということらしいです」高見刑事は手帳のページを一枚めくって続けた。

 「それが、昭和49年、っていいますから、1974年のことですね。それから、調査のために、いったん宝物館に仮展示されていたらしいんですよ」
 「あの男が口にくわえていたのは、平家納経じゃなく、その鉄の棒だったのか?」神田は首をひねった。



 「おっと、肝心なことを忘れるところだった。さっき、宝物館で防犯ビデオをチェックしたんですがね。ひとり、大男が写っていたんですよ。それも、その、鉄の棒を展示しているケースの前で。ちょっと、確認していただきたいんですが。このテープですが。ここには、デッキは?」
 「あります」そう言って、高見刑事からテープを受け取り、デッキにセットした。
 テープが再生されるまで、高見刑事は質問を続けた。

 「大まかには聞きましたが、外人風で、大男で、と。他に何か思い出されたことはありませんか?」高見刑事は、ボールペンを取り出し、カチャ、と芯を出した。
 「いや、これと言っては別に。確かに、普通の男じゃありませんね、あれは。武術か何かの相当な使い手ですよ」と、ここまで言って、
 「そう言えば、一瞬手に触れた時、ヌルッ、とした感触で、スルッ、と手から滑り出ましたね。最初は雨で体が光っているのかと思いましたが、今思うと、あれは、油か何か体に塗っていたのかなァ・・・」
 「油を?」高見刑事は顔を上げた。
 「ほら、よく、寒い時には油を体に塗って泳ぐって、聞くじゃないですか」
 「なるほど。じゃ、奴は、泳いで上陸したと。もちろん、台風前でしょうがね」
 「その可能性もありますね。何しろ、あの体だ。船だと目立つでしょうし」
 「神田さん、この男ですか?」高見刑事は、画面を指差した。

 確かにあの男だ。何人かの外国人観光客に混じって、頭二つ飛び出している。男は、背広姿で、顔を隠す様子もなく、展示されている鉄の棒を凝視している。「ということは、目立つ、目立たないは関係ないってことか」
 「この男に間違いありません。これは・・・」
 「3日前の記録です。つまり台風の前々日です。おかしいでしょ?最初から顔も隠さず、じっと見つめて。これじゃ、私が犯人ですって言ってるようなもんだ。それとも、最初はそんな気はなく、その現物を見て思いつき、いったん、引き上げて、再度、今度は、台風前日に泳いでやってきたのか?」高見刑事は自分自身につぶやいた。

 「どうも、納得できる話じゃありませんね」神田は左手をテレビの上において画面を覗き込んだ。
 「で、男の捜索のほうは?」神田(かみた)は聞いた。
 「山狩りとかは・・・?」
 「いやー、今のところは、こそ泥一人ってとこですからねぇ。被害状況もよく分かってないし、これが、国宝でも盗られたっていうんなら話は別ですがね。それに、この状況でしょ。人手の問題もありますからね」
 「そうでしょうね。まぁ、あの大男なら、目立ちますから隠れようもないし、第一、あの土石流に巻き込まれたんじゃあ・・・」

この日の夜明け前、弥山(みせん)頂上から一羽の巨大な烏(からす)が飛び立った。

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第4話 富士山頂では、自然が、神の怒りとなって、命の存在は微塵(みじん)も許さないかのように荒れ狂い [ミステリー小説]

 2005年(平成17年)9月 富士山

 宮島に大きな傷跡を残して台風14号は日本海へ抜けた。しかし、この台風は、そのゆっくりとしたスピードもあって、秋雨前線を刺激し、九州に上陸する以前には、すでに激しい雷と共に記録的な豪雨を関東地方にもたらし、首都東京にも床上、床下浸水など大きな被害を与えていた。

 そして、富士山頂では、自然が、神の怒りとなって、命の存在は微塵(みじん)も許さないかのように荒れ狂い、雨と風は人工の建物に襲いかかった。すでに登山シーズンも終わり、多くの山小屋は営業を終え無人となっている。そして、期間中は登山者でにぎわう郵便局や富士山本宮浅間大社奥宮(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃおくみや)の扉も固く閉ざされている。

 浅間神社奥宮のすぐそばにある富士山頂館の主(あるじ)は、台風の接近によって下山時期をいつもより遅らせ、この夜は山小屋の中で過ごした。そして、雨の上がった翌朝、下山する前に奥宮(おくみや)へ手を合わせるために、鳥居のところへ来て、奥宮の屋根の一部が陥没していることに気付き、携帯電話で富士宮市にある富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)に連絡を取った。

 2日後、浅間大社職員が富士山頂へ奥宮の整理と補修のためにやってきた。
 本殿内は一部土砂で埋まっていた。
 「なんでしょう。これは?」一番若い職員が、シャベルですくった土砂(どしゃ)の中に変なものを見つけた。
 「なんだ?」もう一人の職員は、腰に手を当て、背伸びしながら、すくい上げた職員が手にしたものを見つめた。
 「なんだろう」他の職員たちも集まってきた。
 「巻物かなァ?」
 「こんなものあったかなァ?」
 「いや、記憶にないな」そういって、職員たちは雲の見える天井を見上げた。
 「とりあえず、先にここを片付けよう。ところで、写真は撮ったかい?」
 年長の職員が言うと、
 「いけね、忘れてた」そう言って、ザックからデジカメを取り出し、作業前の状況を記録した。



 富士山頂は、酸素濃度は平地の3分の2で、厳しい自然環境は北極圏なみである。雨は下から降り、夏でも雪が降る。強風が吹けば岩さえも転がる。台風14号はこの時日本海のほぼ真ん中あたりに達していたが、何しろ富士山は日本一の独立峰であるため、風の影響をもろに蒙(こうむ)る。自然の神に許しを請いながらの作業は時間がかかった。1日がかりでようやく作業を終えた神社の職員たちは下山の準備にとりかかった。

 「ちょっと、作業終了の記録を・・・」
 そう言って職員の一人はデジカメで社殿内の写真を撮り、最後に5人全員の写真を撮った。
 「これ、どうしましょう?」最初に鉄の棒を発見した若い職員が、その棒を握って、年長の職員に聞いた。
 「宮司(ぐうじ)の指示を仰(あお)ごう」そう言うと、携帯で写真を撮り、メールに添付して本宮のパソコンに送った。
 「なんだろうな、この模様は?」職員の一人が鉄の棒を見ながらつぶやいた。
 「文字のようでもあるし、模様のようでもあるし。結構古い感じがするよね」
 「けど、こんなもん、どこにあったんだろう?」
 「土砂に混じってたってことは、土砂と一緒に流れ込んだってことかな?」
 「さあー、祭壇の中にあったのかも」
 「どうなんだろうね」

 そうこう言っているうちに、その鉄の棒は、「祭壇にお祀(まつ)りしておくように」と宮司から電話があった。
 「祭壇に?」年長の職員はいぶかしげに首をひねったが、指示通り、祭壇に鉄の棒を供え、忘れ物はないか最終チェックをし神社の扉を閉じ、施錠して下山した。




2005年(平成17年) 広島・宮島 

 神田(かみた)は今、歯向かう老犬を見るような、あの男の獅子のような眼を思い出していた。そして、あの「暴力団襲撃事件」のときに抱いた闘争心が湧き上がってくるのを感じている。
 「老犬になるにはまだ早いだろう、エエ?」濡れたシャツの下にある贅肉(ぜいにく)を触り、そう口にして、ゆっくりと走り始めた。この尾根を登りつめると宮島の東のピークにたどり着く。そこには宮島ロープウェイの終点駅「獅子岩駅(ししいわえき)」があるが、ロープウェイはまだ動いていない。獅子岩から弥山本堂(みせんほんどう)へは緩やかなアップダウン道でつながっており、そこから巨岩が折り重なる弥山頂上へはやや急な上りとなる。
 
 神田には、今日は頂上へ登る体力は残っていないので、紅葉谷を下ることにした。1945年(昭和20年)の枕崎台風で土砂崩れをおこした谷だ。下り始めて10分ほどで、膝がガクガクと笑い始めた。登山道脇の石に腰を下ろしてスポーツドリンクで水分を補給しながら、宮島は豊かな原始林に包まれていることを実感した。さっきまで降っていた霧雨で一層深みを増している。その時、下から、弥山頂上のレストハウスの主(あるじ)が登ってきた。

 「やあ神田(かみた)さん。こんなところで何を?」
 「いや、ちょっと、状況を見ておこうと思って・・・」
 「そうですか。ご苦労さまです。私も、上のほうが気になって。それにしても、大聖院の参道が、あんなことになって、大変ですね」
 「そうですね。復旧までには相当時間がかかるでしょうね」
 「それはそうと神田(かみた)さん」
 「エ?」
 「何でも、外人の大男を捜してるとか聞いたんですが」
 「そうです。こそ泥ですがね」
 「私は、見たんですよ。台風の前の日に」
 「え?どこで」
 「頂上でですよ。大きなザックをかついでね。ツルツル頭でしたよ。頂上の大岩に、こうやって、両手をあてて、ジッとしてたんですよ」そう言って、主(あるじ)は頭を下げて両手をそばの大岩に当て、岩に体を預けるような格好をした。
 「ちょうどこんな風に、なんか、こう、岩に祈りを込めるというか、岩から霊気をもらうというか、そんな格好でしたよ」
 「で、その後(あと)は?」ペットボトルを手にしたまま神田は聞いた。
 「さー、私が下山する時にはまだ展望台の上にいましたからね」主はタオルで首筋の汗をぬぐいながら答えた。
 「警察には?」
 「いえ、まだ何も。さっき、下で聞いたもんですからね。後でいいか、と思って」と、悪びれずにタオルを頭に巻きながら言った。
 「ビデオに写っていたのが、台風の3日前。と言うことは、その翌日、弥山頂上へ登って・・・、その日は、夜まで頂上にいた・・・ということになるな」神田は両膝に手をやり、立ち上がりながら思った。

 宮島観光推進協会の事務所に出勤する前に一度自宅へ帰ってシャワーを浴びた。着替える時、携帯の着信ランプが点滅しているのに気がつき、神田(かみた)は事務所に電話を入れた。
 「あ、神田さん。先ほど高見刑事さんから電話がありましたよ」
 「へー、なんだろ?ありがとう。電話してみる」
 「いえ、なんだか、もうこっちへ向かってると言うことでしたから、そろそろお着きになるんじゃないですかね」
 「あ、そう。じゃ、私も、すぐにそっちへ行くから」
 神田の自宅は事務所から歩いて10分のところにある。今まではその距離をバイクで通勤していたが、今日からは軽いランニングで通勤することにした。

 事務所で朝刊各紙をチェックした。各紙とも台風被害の記事と写真がトップを飾っている。今回の台風14号は典型的な雨台風で、各地に雨による大きな被害を残している。東京でも雷雨で首都機能が麻痺し、再び「危機管理」の重要性を訴える記事が目に付いた。社会面でも、宮島をはじめ各地の被害の状況が細かく伝えられている。
 神田は、その中のひとつの写真に眼が釘付けになった。鉄の棒と同じものが写っているのだ。



 「神田(かみた)さん」
 「神田さん!!」
 何度か呼ばれて、顔を上げると、高見刑事が立っていた。今日は背広にネクタイ姿だ。
 「え?あっ、これは失礼しました」そう言って、新聞をたたみ、椅子の横に置いて立ち上がった。
 「どうしました?ボーっとして」心配そうに顔を覗き込んで、「少しお疲れじゃないですか?」と言った。

 高見刑事の後ろにはキチッと背広を着こなした男が4人立っている。
 「紹介させていただきます。こちら、警察庁、外事課の鈴木刑事。それと・・・」
 「警察庁?外事課?」神田は「はぁ?」という顔で高見を見た。事務所内にいた職員も全員、緊張の面持ちで男達と神田の顔を見た。高見刑事は、それには構わず、紹介を続けた。
 「そして、こちらの方々は、中国大使館の・・・」そう言いながら、内ポケットから名刺を取り出してパラパラとめくったが、「中国大使館の・・・」と紹介された男達は順に、
 「カクといいます」
 「サイといいます」
 「ショウといいます」
 日本語で、それぞれが、例文通りといった感じで自己紹介した。
 「中国?・・・大使館?・・・」
 いづれも立派な体格をした40代くらいの男達だ。
 「何事だ・・・?」神田は名刺を出しながら事態を理解しようとした。



 「この男たちには見覚えがある。どこだったか?」そう考えていたとき、高見は、
 「今回の一件は、こちらの鈴木刑事が引き継がれます」そう言って、神田(かみた)から目をそらした。
 「それで、何か?」神田は鈴木刑事を見つめた。
 「実は、例の鉄の棒ですがね」鈴木刑事は背広のうちポケットから書類を出しながら言った。
 「はい」
 「外交ルートを通じて協力要請が来ましてね」そう言って、その書類を神田の方へ向けて渡した。
 「協力要請?」そう言いながら、神田は書類に目を通した。
 「ええ。ところが、正式に市のほうへ要請しようとした矢先、今回の件が起こったというわけです」神田から戻された書類を丁寧にたたんで封筒に入れながら、鈴木刑事は中国大使館の職員だと紹介された男たちのほうに向かって言った。
 「既に、こちらの方々は、その現物を確認されていまして」
 そう言われて思い出した。あの大男と一緒にビデオに写っていた男たちだ。
 「あの棒は、我が国にとって重要な物なのです。あなたは、あの棒がどこにあると思いますか?」最初に名乗ったカクという男が直接的な言い方で聞いた。冷たい声だった。
 神田は、この男の眼が不自然な動きをしているのに気がついた。



 「そんなことは分かりません」神田(かみた)は少しムッとしながら答えた。
 「あの台風の晩に盗まれたきりですから」事務所の女の子が立ち上がって、コーヒーメーカーのところに行こうとしたのを目で制した。

 「それに、私は観光推進協会の一職員にすぎませんから、捜査にご協力はさせていただきますが、私自身で捜査する権限も、またその気もありませんし」
 高見刑事は、白髪頭(しらがあたま)に手をやり、上目遣(うわめづか)いで神田を見た。
 鈴木刑事もネクタイの結び目に手をやりながら、天井を見上げている。

 「言てること理解します。私、日本語、上手でないですから、気分害したら、謝ります」カクと名乗った大使館員はそう言いながら内ポケットに手をやり、プルプルと震えている携帯電話を取り出し、右目だけ動かしてボタンを押した。左目は義眼であった。
 「あなたは、犯人と接触した一番の人です。ちょと、失礼します」そう言って携帯に出た。
 カクは二言三言(ふたことみこと)電話で話し、
 「鈴木さん、急用ができました。私達、これから東京に帰らなくてはいけません」そう言いながら、連れの二人に顎(あご)をしゃくって指示を出した。
 「それはまた急な。たった今、着いたばかりですよ。まだ、宝物館の館長にも話を聞いていないし、・・・」
 カクは鈴木刑事の言葉を手で制し、
 「高見さん、代わりにお願いします。後日、報告は鈴木さん宛てにメールでお願いします」
 そう言いながら、もうドアのほうに向かっていた。鈴木刑事もあわてて後に続いた。
 「ご協力感謝します。ではまた後日お会いしましょう」カクはドアの手前で振り向き、そう言って出て行った。
 「お騒がせしました。何か進展がありましたら連絡お願いします」鈴木刑事は、やれやれ、といった顔をして、神田と高見にそう言って、頭を下げ、ドアを閉めた。



 「いったいどうなっているんですか?」神田はそう言うと、ドッカ、とソファーに腰を下ろし、高見にも座るよう促(うなが)した。
 「さあ・・・」と、言いながら、高見も椅子に腰掛けた。
 「私も、何も聞いていないので・・・。何だか、ややこしくなってきたなァ」そう言いながら、また、白髪頭に手をやった。

 「あっ!!」神田は椅子から飛び上がった。
 「何ですか!!ビックリした」高見も、ビクッ、として背を伸ばした。
 「これですよ」そう言って、新聞をめくって、台風被害の写真のひとつを指さした。それは「富士山頂にも被害が」という見出しで、富士山本宮浅間大社奥宮(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃおくみや)の被害状況の写真が載っている所だ。社殿内の被害の様子が写っている。
 「へー、今回の台風は大変だったなー」
 「そうじゃないですよ。これ、これですよ」そういいながらルーペを持ち出し、写真をジックリと見た。

 「これだ。やっぱりこれだ」
 「何なんですか」高見は新聞を覗(のぞ)き込んだ。
 「これですよ。宝物館にあったのは!!」あの鉄の棒が写真の端のほうに写っている。
 「ええ!?なんでまたこんなところに?」
 「いいですか。富士山頂の被害は宝物館の一件よりも2日、3日前のことですよ」
 「・・・ってことは、同じものが二つあったってことですか?」 
 「そうなります。今の大使館の連中の慌(あわ)て方は、大使館もこの記事を目にしたんじゃないですか?」
 「それで、帰って来い、って言う指示が出たってことか」
 「いったん東京に帰って、どうするつもりだろう?」
 「ここ、宮島と同じように外交ルートの圧力で、その鉄の棒を頂いちゃうんじゃないですか?もっとも、ここ宮島では誰かに先を越されちゃいましたがね」
 そう言ってふたりは顔を見合わせて黙った。

 その頃、東京新宿のホテルの一室では、大男が新聞を食い入るように見つめていた。

第5話 富士文献と申しますのは、宮下文献(みやしたぶんけん)、とも言われておりまして、日本の太古の歴史が書かれたました厖大(ぼうだい)な書物でございます [ミステリー小説]

 天狗

 その日の午後、神田龍一(かみたりゅういち)と高見刑事は新幹線に乗り込んだ。

 「しかし、神田さん。神田さんは、捜査する権限も、する気もないと言ったばかりじゃないですか?」駅弁の包みを外しながら高見はチラッと横に座っている神田を見た。
 「台風のおかげで、いろいろと業務もあるんですけど、警察と市から観光推進協会へ要請がくれば、私が動かないわけにはいかないですからね」と、言い訳のような返事をした。
 「そう言う高見さんも、この件は警察庁へ移ったと言ってたじゃないですか」神田は弁当を頬張りながら言った。 
 「いやー、私は、もうじき定年でね、わりと自由にさせてもらってるんですよ。それに、民間人一人に危ない橋は渡らせられませんからね。言ってみれば、ボディーガードみたいなものですよ。それに、この一件の担当はもともと私ですから」そう言って登山ズボンのベルトをゆるめた。

 「で、富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)さんへは連絡を?」神田は高見刑事に聞いた。
 「ええ、本署が連絡をしてくれていると思います。窃盗事件の件で、お話を・・・と。しかし、富士山かぁ。体力、大丈夫かなぁ。学生時代に一度登りましたがね。もう登ることはないと思ってましたが」高見刑事はお茶を一口飲んだ。

 「高見さんは山登りがお好きなんですか?」神田もペットボトルのお茶に手を伸ばしながら聞いた。

 「いや、昔の話ですよ。わたしの爺さんが山登りが好きでね。家には爺さんや曽祖父(ひいじい)さんが山で拾って来た石っころやら木の根っ子やら、何やらわけの分からない物がたくさんありましたよ」と、懐かしそうに答えた。そして、思いついたかのように「定年になったら日本百名山でも踏破してみるかな」と言うと「ははは」と、愉快そうに笑った。

 新大阪を過ぎた頃、
 「ちょっと、ここまでの話をまとめておきませんか?」そう言うと神田は、きりっとした眼差しで高見を見た。
 「そうですね」高見もそれに静かに応えた。
 「まず、あの大男ですが。宝物館(ほうもつかん)に忍び込む2日前にはビデオに写っていた。その時、たまたま、例の中国大使館の連中と一緒になった。ここまではいいですね」
 「ええ。そして、いったん引き上げ、台風がやって来るのを知りながら、弥山(みせん)頂上へ登って、なにやら、怪しげな行動をして、そのまま、夜までどこかに身を隠していた」高見は箸を持った手を右、左へ動かした。
 「展望台の主(あるじ)の話だと、大きなザックを背負っていたらしいんです」
 「しかし、神田さんが見た時は裸同然だったんですよね」神田のほうを見て高見は言った。
 「なぜ、台風の危険を冒(おか)してまでもその日でなければならなかったのか?普通の日の夜でもいいじゃないですか」そう言いながら、高見を見て同意を待った。
 「台風だと、万が一の時に、警察が駆けつけるのが遅くなるとか、逃げやすくなるとか、考えたんですかね?」
 「それとも・・・」
 「それとも、もう、時間がなかったのか」神田の言葉を次いで高見は言った。
 「中国大使館の連中に先を越される。時間がない。そう思って、台風の日にやむを得ず侵入した。こう考えられませんか?」神田は再び高見の同意を待った。
 「なるほど。それも、その男の国の外交ルートは使えない理由がある。こういうことですね」
 「たぶん」
 「しかし、たまたまにしても、よくも、あの日、宝物館でかち合ったもんですね」
 「あの鉄の棒が展示されているという情報を、同時か、ほぼ同時に耳にしたということじゃないですかね」
 「うーん・・・どこから?」高見は弁当から顔を上げ聞いた。
 「さあ、それはまだ・・・」神田は、箸を置き、蓋(ふた)をしながら小さな声で言った。
 「シューマイ残すんですか?」神田の弁当を覗き込んで高見は言った。
 「え?ええ。最近ちょっとダイエットを・・・」
 「じゃ、いただきますよ」高見は箸でつまんで、ポイッ、と口に放り込んだ。



 「のぞみ」を名古屋で「こだま」に乗り換え、新富士駅からはタクシーで富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)に向かった。
 「さすが、立派なものですねー」高見刑事は、ホーッ、という感じで言った。
 富士山本宮浅間大社は全国1300社以上ある浅間神社の総本宮で、駿河(するが)の国の一の宮として全国的な崇敬を集める東海最古の名社である。
 「残念だなー。本来ならここから富士のお山が見えるんでしょうがねえ」と、高見刑事は本当に残念そうに言った。日も暮れかけ、おまけに上空は雲が流れている。また、雨でも降りそうな気配だ。

 境内(けいだい)に入ると、夕暮れ時にもかかわらず、散歩といった感じの人たちや、観光客の姿もまだ見える。参拝客も多いのであろう、境内の木はおみくじの白い花を咲かせている。砂利の敷き詰められた参道を進み、社務所で案内を請うた。
 「はい、聞いています。こちらへどうぞ」巫女(みこ)さんに案内されて奥の部屋に入った。しばらくして、宮司が現れた。

 「お忙しいところ申し訳ございません」神田(かみた)と高見は立ち上がって頭を下げた。
 「いえ、いえ、ご苦労様です。で、窃盗事件と当社と、どういう関係が?」宮司は少し怪訝(けげん)な様子で椅子を勧めながら聞いた。高見刑事はこれまでのいきさつをかいつまんで話し、新聞の写真を見せた。

 「さようでございますか。これが、宮島さんにも・・・」宮司は、考え込む様子で新聞をテーブルに置き、目を閉じた。
 「その、鉄の棒について何かご存知のことがございましたらお教え願えませんでしょうか?」高見刑事は体を前に出しながらたずねた。
 「私は、あれが何かは、全く存じていないのですよ。何度か目にした事はございますが。もともとは、あれは、奥宮(おくみや)にあったものではございませんで」
 「え?すると、どこからか移されたということですか?」



 神田(かみた)の問いかけに、宮司は
 「はい、さようでございます。もともと、あれは、富士山頂にあったものでございまして・・・」
 「え?山頂に?奥宮は富士山頂じゃないんですか?」

 コツコツ、とノックがあって、職員が入ってきた。宮司は、ドアのほうを振り返りながら、
 「はっ、はっ。富士山頂は剣が峰でございますよ」そう言った。入ってきた職員は、 
 「あの、先ほどのお客様がお帰りになられますが・・・」と言うと、
 「あ、そうですか」と、立ち上がりかけると、
 「いえ、お見送りは結構です、ということでした」職員はそう言って出て行った。その間、高見刑事は、自慢げに、
 「そうですよ、神田さん。レーダードームがあったところが富士山頂、剣が峰。日本一のてっぺんですよ」
 「そうなんですか。知らなかったなぁ」神田は椅子に座りなおした。その時、社務所の壁にポスターが貼ってあるのに目がいった。そのポスターには「御鎮座(ごちんざ)1200年記念事業奉賛会」とあった。
 「これは?」神田は立ち上がり、ポスターのところへ行って聞いた。
 「はい、来年2006年(平成18年)が坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)様が浅間大神(あさまのおおかみ)様を当地に遷宮(せんぐう)されまして1200年の節目の年に当たりますので、その記念事業へのご協力をよびかけるポスターでございます」
 「へー。実は、宮島も、空海さんが宮島に渡って、弥山(みせん)で修行をし、開基したのが806年ですから、来年2006年が、弥山開基1200年の記念の年になるんですよ」
 「はい。そういうお話は伺っています。奇遇でございますね」宮司は、ニコニコしながら応えた。

 神田は椅子に戻ろうとして、ポスターの横のスケジュールボードにふと目をやった。その年間スケジュールの中に「厳島神社例祭」と書き込まれているのを目にしたのだ。
 「ここにも、厳島神社が?」神田は何か因縁めいたものを感じ始めていた。



 「それで、その鉄の棒が剣が峰から奥宮へと移ったいきさつは?」高見刑事が、神田が口を開く前に尋ねた。
 「それは存じております」宮司は静かに答えた。
 「先ほど刑事さんがおしゃっていらしたレーダードーム。あれが建てられるかなり前のことです。1895年といいますから明治28年のことでございますよ」宮司は引き締まった顔で軽くうなずきながら話を続けた。

 「野中至(のなかいたる)という方が、私財をはたいて、その富士山頂、剣が峰に気象観測所をお作りになられましてましてね。それはそれはご苦労をされ、なにしろ、今でさえ山頂での越冬は大変なことですのに、当時は、まだ、ましな装備もないことでしょうし、日本国のことを心底思ってのことでございましょうねぇ・・・」そう言って、袂(たもと)からハンカチを取り出し目に当てた。
 「それで、その鉄の棒は?」高見刑事は質問を続けた。
 「はいはい、それで、その観測所を作るために、剣が峰の大きな石を動かしたところ、鉄の箱が出てきたらしゅうございまして、その中に、なにやら、御文書(ごぶんしょ)と一緒に、その、鉄の棒が納められていたらしいのです」お茶を一口飲んで、落ち着きを取り戻し、話を続けた。

 「これは、私が直接聞いたことではございませんで、先代の宮司から私は聞いたものですから、確かなことは分かりかねますが、なにやら、そういうことらしゅうございます。そして、野中様は、これは、富士山頂に丁寧(ていねい)に納められていたところから察するに、富士山と、よほどのいわく、因縁(いんねん)があるものであるものに違いない、とまあ、こんな風に思われたのでございましょうね。先々代の宮司に頼んで、爾来(じらい)、浅間大社奥宮にお祀(まつ)りさせて頂いていたのでございます」



 「誠に恐縮ですが、その、鉄の棒を、捜査協力ということで、しばらく、拝借(はいしゃく)できないものでしょうか?」高見刑事は、両手をテーブルに置いて宮司を見つめた。
 「私といたしましても、あれが宮島さんと何かの関係があるということが分かりましたし、あの鉄の棒と私どもとの関係が解明できるのであればありがたいことでございます。それに、あれは、もともと、神社庁とはかかわりのあるものではございませんし、後日、返還いただける、ということを条件にお貸しいたしましょう」宮司はニッコリと微笑(ほほえ)んだ。
 「ありがとうございます。ご協力感謝申し上げます」神田と高見はテーブルに両手を着けて頭を下げた。

 「じゃあ、明日にでも、登ってみますか?神田(かみた)さん」高見刑事は神田を見て言うと、神田は、
 「でも、もうシーズンも終わりましたし、鍵が掛けられているのでは?」そう言って宮司を見た。
 「いえ、ちょうどよろしゅうございました。明日は職員が、鍵を開けますので」
 「と、言いますと?」
 「新聞社の取材が急に入りましてね。何でも取材の皆さんは明後日にはお国に帰られるとかで、この台風でスケジュールが大狂いだと嘆いておられましたよ。本来ならば、丁重にお断りするのですが、何しろ、大使館からのたってのお願いでございまして」

 大使館と聞いて、神田と高見は緊張して尋ねた。
 「大使館?どちらの?」
 「中国でございます」



 「先ほど、お車で五合目に向かわれました」宮司は、それが何か、と言う様な顔をした。
 「じゃあ、先程の、お客様というのは・・・」神田(かみた)と高見は顔を見合わせて立ち上がった。
 「さようでございます。中国の新聞社の方々でございます」
 「何人ですか?」高見刑事が聞いた。
 「3人様でございます」
 「私どもの職員が一人ご案内役としてご一緒させていただいていますから、全部で4人でございます」宮司は、両手を膝に乗せて答えた。
 「じゃあ、中国人は3人?」神田の顔がやや紅潮した。
 「さようでございます」宮司もゆっくりと椅子から立ち上がった。

 宮司は思いついたように、
 「そうだ。その職員に電話をして、鉄の棒を持って帰るように申し伝えましょう」
そう言って、懐(ふところ)から携帯電話を取り出した。
 「あ、ちょっとお待ち下さい。その新聞社の男達は何か言っていましたか?」
 「いえ。ただ、天気が心配だとか何とか、と、おっしゃっていらっしゃいましたが」携帯電話を懐(ふところ)に納めながら宮司は言った。
 「高見さん、どう思います?」神田は高見刑事の顔を見た。
 「今までの流れから行くと、新聞社じゃないでしょう。それにしても速攻だな」高見は腕時計をチラッと見た。
 「隙を見てその鉄の棒を奪い取る気ですよ、きっと」神田は床に置いたザックに手をかけて言った。

 「どういうことでございましょうか?」宮司には事態は飲み込めていない。
 「予備の鍵をお貸し願えませんでしょうか?」高見刑事は宮司の顔を見つめて言った。
 「それはよろしゅうございますが・・・」
 「職員の方には何もおっしゃらないで下さい。私達もこれから富士山に向かいます」高見刑事はザックを抱え、神田と共に、宮司に頭を下げた。



 「ところで、先ほど、宮司さんは、あの鉄の棒は、御文書と一緒に、と、おっしゃいましたが、その御文書は今は?」社務所から出て裏の駐車場へと歩きながら聞いた。日はもう落ちて、外灯の灯りが境内(けいだい)を照らしていた。
 「それは、その鉄の棒が入っておりました箱と一緒に、野中様がご自宅にお持ち帰りになりました。私も聞いた話でございますので、定かではございませんが、なんでも、その御文書は、その後の富士山の噴火の溶岩の熱のせいございましょう、大半が燃えて灰になっていたらしゅうございます」宮司はいくぶん顔を傾け神田の顔を見ながら答えた。
 「で?」
 「はい。ご自分ではどうしようもないので、ある人に分析、解読を頼まれたとか聞いております」
 「そのある人とは?」高見刑事は手帳を取り出しながらたずねた。
 「いや、これは、定かではございませんので・・・」宮司は言葉を濁(にご)した。
 「何か不都合なことでも?」
 「これは、私どもとは関わりのないことでございますが・・・」
 「?」神田(かみた)と高見は同時に宮司の顔を見た。
 宮司は思い切ったように言った。
 「富士文献(ふじぶんけん)というのをご存知でございましょうか?」



 「富士文献(ふじぶんけん)?何だか聞いたことがあるような、ないような」高見刑事はボールペンで手帳をポン、ポン、と軽くたたきながらつぶやいた。宮司は、それでは、といった風な感じで説明を始めた。

 「さようでございますか。富士文献と申しますのは、宮下文献(みやしたぶんけん)、とも言われておりまして、日本の太古の歴史が書かれたました厖大(ぼうだい)な書物でございます」
 「あーあ、なんでも、古事記よりも古いとか言われている」高見は、おぼろげながらに思い出した。
 「さようでございます。それは、徐福文献(じょふくべんけん)とも言われておりまして、そもそもは、古代文字で木片などに書かれていたのでございますが、それを、徐福さんが漢字に書き直されたと言われております」タクシーのやって来る車寄せの方向へ手を軽く伸ばし、神田と高見は宮司に続いてその方向へ曲がった。

 「しかし、それは、伝説の類(たぐい)では?」神田(かみた)は聞きにくそうに宮司に言った。
 「さあ、それは、私には分かりかねますが、徐福さんが古代文字から漢字に書き直す、まあ、翻訳する、とでも申しましょうか。それを代々手伝っていた家系がございまして・・・」
 「それはいつ頃の話なんですか?」神田は背負ったザックのベルトに手をやり、グイッ、と揺すって背負いなおした。
 「いろいろと説はございますが、今から、少なくとも、2000年以上も前のことだといわれております」

 「2000年!?」神田は、「そんなことはありえないな」と、思った。
 「それで、その・・・エート・・・」
 宮司は高見刑事の言葉を次いで、
 「徐福(じょふく)さん。その徐福さんの手伝いをした家系が代々この富士の裾野(すその)におられまして」
 「今でも!?」高見刑事は驚いて宮司の顔を見た。
 「はい」宮司は自信ありげに答えた。
 「今でもですか!?」神田も幾分念を押すように宮司に尋ねた。
 「はい。宮下家の遠縁に当たられますが、今は、富士吉田の小さな神社をお守りになっていらっしるお宅がございまして、そちらなら、その御文書の解読ができるのではと、野中様はお思いになられたのでございましょうね」
 「で、結局、その御文書には何が書かれていたのですか?」高見刑事は車のライトが近づいてくるのに気がついた。
 「あ、タクシーがまいりました」



 高見刑事は、タクシーから警察庁の外事課の鈴木刑事に連絡を取った。鈴木刑事によると、東京駅までは確かに一緒だったということだった。
 「すると、それからすぐに、やっこさんたち、支度を整えてこっちに向かったということか。よほどあせってるな、これは」
 「ですね。だから、今回は警察庁抜きで動き始めたんでしょう」神田はすれ違う車のライトをぼんやりと眺めながら、頭の中で今回の一件をもう一度整理した。

 タクシーは市内を抜け、やがて富士山スカイラインに入った。
 「どうも、話が見えてきませんね」神田は、腕を組んで前を見たまま言った。
 「どうしてこの一件に中国大使館が絡んでくるんだか?」高見刑事も自分自身に問いかけるようにつぶやいた。
 「高見さん。これは?」神田はそう言って、右手の人差し指と親指を立てた。
 「ここに」高見刑事は胸のふくらみに手をやった。
 「まさかね。まさか、これの出番はないでしょう!?」高見は、そのふくらみを軽く一回叩いた。
 「と思いますが。念には念を、ですよ。今回の件は、どこに話が転がって行くか分かりませんからね」

 日が落ちて、あたりはすっかり闇に包まれている。時折り対向車とすれ違うが、タクシーの運転手の話によると、六合目までは、観光客でも登れるらしく、まだ山小屋も営業しているらしい。神田たちは、新五合目の「表富士宮五合目レストハウス」に宿泊予約を入れていたが、休憩だけして今夜中に出発するつもりでいた。宮司から、浅間大社の職員は六合目の山小屋に宿泊して、夜中2時頃に出発の予定だと聞いたからだ。



 「表富士宮五合目レストハウス」には二階の売店の奥に宿泊者のための部屋がある。神田(かみた)たちは荷物を置いて一階の食堂へ向かった。
 「腹が減っては戦(いくさ)は出来ませんからね。それに、体を高度順応させる必要もありますし。高山病をなめたら、痛い目にあいますからね」高見刑事はそう言って蕎麦(そば)をすすった。

 「連中より先にあれを手に入れて、そもそもあれが何なのかを解明しないことには・・・」神田はそう言って、窓の外を流れるガスに目をやった。
 部屋で2時間ほど横になって、夜11時過ぎ神田と高見はレストハウスを出発した。合羽(かっぱ)を着てガスに包まれている外に出、頂上方向を眺めたが、湿気を含んだガスに阻(はば)まれて何も見えない。

 「あっちもこっちも見えないものばかりだな」高見刑事はストックのバンドに手を通しながら小さく言った。懐中電灯で足元を照らしながら、一歩を踏み出した。六合目までは歩き易い道が続く。じきに合羽の表面は濡れて水滴がつき始めた。六合目の手前で、懐中電灯の明かりをやや絞り気味にして、六合目山小屋「雲海荘(うんかいそう)」の前を通り過ぎ、左手に曲がり、本格的な登山道に入った。フードを被(かぶ)った神田の耳には、足を踏み出すたびに「ハッ、ハッ」という自分の息と「ジャリッ、ジャリッ」という足音だけが聞こえてくる。



 八合目を過ぎたあたりからガスが薄くなり、神田と高見刑事は合羽を脱いでザックのバンドにくくりつけた。
 「これどうですか?」高見刑事はチョコレートの箱を開けて神田(かみた)のほうに差し出した。
 「あ、頂きます」神田は手刀を切るしぐさをして一粒つまんだ。
 「あれ?ダイエットは?」そう言って高見刑事は神田をからかった。
 「ははっ、登って下りたらカロリーは十分消費してるでしょうから」そう言い、
 「あとどれくらいですかね?」とザックを背負いながら高見刑事に聞いた。
 「この調子で行くと夜明け前じゃないですかね」高見刑事は帽子を取って、上の方に見え隠れする赤茶色の砂礫(されき)を眺(なが)めた。



 神田(かみた)と高見刑事は、最後の鳥居の手前で再び腰を下ろした。ガスは薄くはなったものの、なかなか晴れない。
 「高見さん、頭、大丈夫ですか?」神田はスポーツドリンクを一口飲んで聞いた。高見刑事もドリンクのキャップを外しながら、
 「私は大丈夫ですよ。神田さんは?」と神田の顔を見た。
 「最近の寝不足がたたって、がんがんします」神田は目を閉じて、頭をゆっくり回しながら言った。
 「もう、ヘッドライトはいいでしょう。頭からベルトを外すとだいぶ楽ですよ」高見刑事は自分もヘッドライトを外しながらそう言った。
 「そうですね」そう言って、ヘッドライトを外してザックに納め、大きく深呼吸を何度かした。しかし、空を見上げると、まだ、クラッと貧血になったような感じになる。

 「さあ、もうじきです。でも、ここからが長いんですけどね」そう言って頂上の方向を見た。
 「あ」高見刑事は一方向を凝視している。
 「どうしました?」
 「人影が。今一瞬ガスの切れ目に人影が見えました」その方向を見据えたまま答えた。
 「ひょっとして、連中ですかね?」神田も、高見刑事の視線の先を見つめたが、再び薄くガスがかかってしまった。
 「でも、まだ出発してないはずでしょ?」神田は、靴ひもを締めなおし、ザックを背負った。
 「いや、いや、それは当てにできませんよ。ともかく、急ぎましょう」
 ふたりはピッチを上げて歩き始めた。



 頂上の山小屋が見えてきた。幸いなことに、「このガスで気付かれていないはずだ」神田(かみた)と高見刑事はそう思いながら頂上直下の岩陰に身を隠した。ふたりはここでザックをおろし、身軽になった。
 「高見さん、どうしますか?もし、連中が大使館員なら、身分を偽わってまであの鉄の棒を盗もうとしてることになりますね?」岩に背を押し当てて小さな声で言った。

 「新聞社の人間なら、何も問題はないわけですがね」高見刑事も岩に背をつけて神田に並んで座っている。
 「こんにちはー、って出て行きますか?大使館員なら何か行動を起こすでしょうし、新聞記者なら、こんにちは、ですむでしょうし」神田は、両手の指と指を胸の前で組み合わせて手袋をギュッ、と締めた。

 「まず、顔を確認しましょう」高見刑事は岩陰から少し顔を覗かせ奥宮(おくみや)入り口付近に固まっている人影を見た。
 「間違いないですね。大使館員です。でも、三人だけですね。神社の職員はどうしたんでしょうね?」神田のほうを振り返って言った。今度は神田が、少し伸び上がって様子をうかがった。

 「あれっ、なんだか、慌(あわ)ててますよ。どうしたんだろう?」
 三人は、ますます慌てた様子で、鳥居と奥宮の間に散らばって周辺のあちらこちらに目をやっている。
 「どうしたんでしょう?」神田と高見刑事は再び岩陰に身を隠した。



 男達の声が大きくなって、一か所に固まっているようだ。神田(かみた)と高見刑事はゆっくりと覗いた。男達は奥宮の屋根の上を指差し、口々に何やら叫んでいる。ガスの流れが早くなってきた。屋根の上に何か黒いマットのようなものが置いてあるのが見えた。男達は、そのマットに向かって、必死に何か叫んでいる。風で、サーッとガスが流れ去った。黒光りしているマットは、奥宮(おくみや)の屋根の上で、ムクムクと動き始め、風にあおられて大きく広がった。

 「あっ!!」
 「どうしました?」
 「あいつだ」
 「えっ、宮島の大男?」
 「そうです。奴だ」
マットだと思ったのは黒い男の体であった。その男は、富士宮浅間大社奥宮(ふじのみやせんげんたいしゃおくみや)の屋根の上に大きく立ち上がった。宮島の時と同じく裸だ。背中にはザックを背負っている。中国大使館の男達は、男の巨大さに圧倒されたかのように、一、二歩あとずさりした。男は鉄の棒を握り締めた右手をゆっくりと上げ、口にくわえた。かと思った瞬間、ポーン、と郵便局の屋根に飛び移り、そこから下に飛び降りて、剣が峰方向に走った。

 神田と高見の視界からは山小屋の陰になって大男の姿はあっという間に見えなくなった。大使館員たちは、ザックを放り出して、後を追いかけ始めた。
 「まるで猿か天狗だな」高見刑事はつぶやいた。
 その時、
 「パーン!!」という乾いた音が鳴り響いた。
 「トカレフだ」高見刑事は目を光らせ、小さく言った。
 「あの銃声はトカレフのものだ」



 男達の足は速かった。とても普通の大使館員とは思えない。しかし、大男はもっと速い。見る見る距離をあけている。神田と高見刑事も必死で後を追いかけた。神田は、ガスの合間から見える富士火口をチラと見やり、「まるで地獄の釜だ」と思いながら前方200mほど先の大使館員達を目で捉えた。そして、さらに先を行く大男が「馬の背」と呼ばれる急勾配の登山道を苦もなく駆け上がっているのを見て、改めてこの男の尋常でない運動能力に驚嘆した。


 大使館員たちもようやく「馬の背」の取っ掛かりに着き、登り始めたが、ザラ、ザラと崩れる火山岩の砂礫(されき)に足を滑らせている様子が見える。再び、「パーン」と音がした。
 「高見さん、ハア、ハア、大男はどこへ行くつもりでしょう?ハア、ハア・・・」息を継ぎながら神田は高見に聞いた。高見刑事も「ハア、ハア、あの先は剣が峰ですけど、そこから先は、ハア、ハア、断崖絶壁ですよ。ハア、ハア・・・」

 再びガスがかかってきた。時折り、空全体が、パパッ、と光る。
 大男は、「馬の背」を登り切り、階段を駆け上がって、気象観測所の建物の上に上がった。大使館員達もようやく「馬の背」を登り切って、気象観測所への階段に足を掛けた。大男はまるで大使館員たちを待ち受けていたかのように観測所の屋根の上に立っている。宮島でカクと名乗った男が右目だけを異様に大きく見開いて、右手に握ったトカレフを大男に向けて何か言った。大男は鉄の巻物をくわえた口の端を上げて嗤(わら)った。もう一度カクが何かを言って左手でトカレフを支え、腕に力が入った時、空が再び、ピカッ、と光った。大男は空に向かって飛び降りた。

 「パーン」「パーン」二発の銃声が響いた。
 男達は、中国語特有の甲高い声で何やらわめきながら観測所の屋根に上がり、大男が飛び降りた方向を見た。
 大男は雲に向かって落ちている。



  神田たちには剣が峰で何が起こっているのか分からなかった。男達の喚(わめ)き声と銃声で、ただ事ではないことが起こっている、それしか分からなかった。「馬の背」をようやく登り終え、お鉢巡りと呼ばれる火口周遊ルート方向へ少し下ったところに身を隠した。ここならガスで見えないはずだ。男達は、何やら叫びながら階段を駆け下り、ザーッ、ザーッと音を立てて「馬の背」を転がるように下っていった。

 神田と高見刑事は「馬の背」を登りきったところまで戻って観測所の建物のある剣が峰頂上へ上がろうとした。その時、観測所の向こう側のガスがサーッと晴れて、巨大な鳥が風に乗って舞い上がって来た。それは、ゆっくりと大きく旋回し、雲に映ったその影はまるで巨大な烏(からす)のようであった。

 「カメラ!!」高見刑事は神田(かみた)に向かって叫んだ。神田はポケットから携帯電話を取り出し、「パシャッ、パシャッ、パシャッ」レンズを大男に向けて3回シャッターを切った。
 大男は、巧みな操作で風に乗り、駿河湾方向へ飛んでいった。その姿も写真に撮り続けた。神田は、無言で、男の姿が黒い点になるまで見続けていた。高見刑事は警察庁の外事課の鈴木刑事に電話をかけ、状況を報告している。
 「外事課はなんて言ってました?」
 「中国大使館に、今回の件の報告を求める、それだけです」携帯をパチッと折畳みながらがらそう言った。
 「あの大男のことは?」
 「山頂から民間人がパラグライダーで飛び降りたぐらいではヘリは出せない、とさ」ポケットに携帯を納めチョコレートの箱を取り出した。
 「ま、そうでしょうね」神田は、高見刑事が差し出した箱からチョコレートを一粒つまんで口に放り込んだ。
 「猿から烏(からす)に変身ってわけか・・・」高見刑事は大男の消えた方向を見つめながらつぶやいた。



 神田(かみた)と高見刑事は、3時間かけて5合目まで下りた。山頂では晴れ間も見えていたが、5合目は依然ガスに覆われて、山頂の姿は見えない。観光客を乗せて来ていたタクシーに乗り、富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)まで戻った。

 高見刑事は、拳銃発射の件や大男が剣が峰から飛び立ったことは伏せて、何者かが、中国の新聞社の人間が着く前に、奥宮(おくのみや)の扉を壊して鉄の棒を盗み出し逃走したことだけを宮司に話し、被害届を出すことを勧めた。

 「私どもの職員も五合目で新聞社の方々からそのように聞き、連絡をよこしましたが、本人は、体調が優れないとのことなので先ほど帰宅させました。今、ちょうど、状況確認のために職員を奥宮様に向かわせたところでございます。何とも恐れ多いことでございます。しかし、おふたりともご無事で何よりでございました」宮司は、ふたりにお茶を勧めた。

 「職員からの報告によりますと、昨夜、山小屋で、新聞社の方々と食事を済ませ、床に就きましたら、ぐっすり眠ってしまい、途中、新聞社の方々から早めに出発したいと、お申し出があったそうですが、なんとも体が動かないので、鍵だけお渡しして、本人は新聞社の方々が下山されるまで山小屋で休んでいた、と、まあ、こういうことでございました。いやはや、新聞社の方々には、申し訳ないことをいたしました」そういいながら、恐縮して肩をすぼめた。
 「!」神田と高見刑事はお互いの目を会わせた。
 「それに、神職にあるものが、軽々しく鍵を渡すなどとは・・・。何とも申しようがなく・・・」宮司は恥ずかしさと無念さで膝の上でハンカチを握った拳を握り締め、
 「ただ、ただ、ご本殿に無礼なことが無かったことをお祈りするばかりでございます」そう言って頭を下げた。

 「新聞社の方々は、帰国の準備があるので、と、五合目でタクシーに乗られて新富士宮駅に向かわれたようでございます」
 「そうですか」そう言って、神田と高見刑事は顔を見合わせた。
 「ところで、昨夜の話の続きですが」高見刑事はお茶を一口すすり宮司に聞いた。
 「話の続き、と申しますと?」
 「その、御文書には何が書かれていたのか、ということですが」高見刑事はポケットから手帳を取り出した。
 「あー、それは私も直接見たり、聞いたりしたことではございませんで、おとぎ話のようなことが書かれていた、ということだけしか」宮司はハンカチを膝の上に置き、湯飲みを両手で持った。
 「おとぎ話?」神田は湯飲みをテーブルに戻した。
 「内容についてどなたかご存知の方はいらっしゃいませんでしょうか?」高見刑事は続けて尋ねた。
 「それはどうでございましょうか?野中様はご長寿で、確か、昭和の30年(1985年)、89歳で天寿を全うされたとお聞きしていますが、生前、その内容については一言も触れていらっしゃいませんし、また、解読した家系の方々も口外していらっしゃらないということです。それに、その鉄の箱と御文書は既にないと思いますが」と、困ったように二人を交互に見つめた。



 「既にない?と言いますと?」神田(かみた)と高見刑事は、宮司の顔を見た。
 「はい。その鉄の箱と御文書はその解読をした神社様から野中様のお手元に返され、しばらくは野中様がご自宅で保管され、その後、不幸なことに、戦時中の空襲で、写しや、資料は焼けてしまったと聞いております」
 「はー、そうですか」高見刑事は、何度かうなずきながら背もたれに背中を倒した。

 神田(かみた)は、いくぶんかの期待を持って、
 「野中さんのご家族の方はその鉄の箱の件は?」と尋ねたが、
 「内容につきましては、まったくご存じないと思います。何しろ、野中様ご自身、その件に関しましては、その後一切口にされなかったようでございますから」と、宮司も申し訳なさそうに答えた。

 神田はさらに、
 「失礼ながら、こちらの先代、あるいは先々代の宮司さんは、御文書の内容をご存知では?」と、尋ねたが、
 「存じてなかったと思います。仮に存じ上げておりましても、その様なこと、軽々しく口にすべきものではございません」宮司は幾分顔を赤らめて言葉を強めた。神田はやや狼狽しながら、再び宮司に尋ねた。
 「では、その鉄の箱に入っていた御文書の分析解読をされた神社さんにはその御文書の控えとか、書き写したものなどは残っていないでしょうか?」
 「どうでございましょうか、終戦後、進駐軍は多くの神社の招魂碑(しょうこんひ)などの施設や書き物を破壊、没収しましたが、その時に、そちらの神社様もかなり大掛かりな捜索を受けたと聞いていますので」宮司は少し腹立たしそうに言った。
 「大掛かりな?」
 「はい。その神社様は、こう言っては何でございますけれども、非常に小さな神社様でして、そこに大勢の進駐軍が押しかけたものですからご近所の方も驚かれたと聞いています」
 「ほー」高見刑事は興味深げにその話を聞いていた。
 「それで、その神社さんはどちらでしょうか?これから伺(うかが)えればと思いますが」神田は体を前に傾けながら尋ねた。
 「はい。それは富士吉田の八頭神社(はっとうじんじゃ)様でございます」宮司は両手を膝にそろえて言った。
 「その八頭神社さんのご住所は?」高見刑事は手帳とボールペン持ったまま、体を前に倒し尋ねた。
 「しばらくお待ちくださいませ」そう言うと部屋を出て行った。
 「神職というものはいろいろとしきたりがあって難しいですね」高見刑事は顔を伏せたまま小声で言った。

 しばらくして、宮司がメモを手に戻ってきた。
 「こちらがご住所でございます。少し分かりにくいと思いますので、このお近くでどなたかにお尋ねくださいませ」宮司は、メモ用紙を高見刑事に渡しながら言った。
 「ありがとうございます。さっそく、お伺してみます。それと、これから、何かございましたら、ここに連絡をお願いします」高見刑事はそう言って胸のポケットから名刺を出し、宮司に手渡した。



 神田(かみた)と高見刑事は新富士宮駅前でレンタカーを借り、東名高速を使って富士吉田の、宮司から教えられた住所に向かった。何度か迷っても辿り着けない。

 「確かこの辺(あた)りのはずですけどね」
 「あ、あの人に聞いて見ましょう」高見刑事は助手席の窓を開けた。
 「恐れ入りますが、この辺りに八頭神社(はっとうじんじゃ)さんがあると聞いて来たんですけど、ご存知ありませんか?」
 「あーあ、八頭社(はっとうしゃ)さんならそこを曲がった突き当りですよ。こんもりとした森が見えますから、その中です」年配の買い物帰りといった風の女性が指を指しながら教えてくれた。
 「ありがとうございました」
 高見刑事は女性に頭を下げ、パワーウィンドウのスイッチをパチッと押すと、神田を見て
 「どうやら地元では八頭社(はっとうしゃ)さんと呼ばれているみたいですね」と言った。

  「確かに、これでは分からないですね」神田はハンドルを切りながら前方の背の高い木が集まっている一画を見た。道端に車を停めて石の階段を10段ほど登ると、椎(しい)や樫(かし)の木に覆われて薄暗い道の奥に小さな神社が見えた。小さいのは社殿だけではない、鳥居も2m足らずの高さしかないし、狛犬(こまいぬ)もまるでミニチュアといった感じで、高さは30cm位しかない。一対の狛犬は腰の高さほどの石の台座の上に座っている。しかも、鳥居の外にあるのが普通だが、この狛犬は鳥居の内側にある。

 「神社というより祠(ほこら)といった方がいいですね」神田は高見刑事を振り返って言った。右隣に小さな民家がある。
 「ごめんください」
 高見刑事は、擦りガラスのはめ込まれた木の引き違い戸を叩いたが返事はない。特に表札らしいものも出ていないが、社務所として使われている気配はある。
 「留守みたいですね」高見刑事は携帯電話を取り出して、富士宮浅間大社(ふじのみやせんげんたいしゃ)の宮司に電話をかけ、連絡先を尋ねた。

 「あいにくとそれは分かりかねますが、心当たりにお聞きしてみましょう。分かりましたら、ご連絡差し上げます」という宮司の返事であった。
 「いろいろとご面倒をおかけしまして申し訳ございませんが、よろしくお願いします」
 神田は、高見刑事が電話をしている間に携帯で神社の写真を撮っていた。御祭神は浅間大菩薩(せんげんだいぼさつ)と木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)とあった。
 「今回は引き上げですね」高見刑事は右手で左肩を揉みながらそう言い、車の方へ向かって歩いて行った。神田も何度か振り返って神社を見ながら後に続いた。
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第6話 宮島に神殿を作るようご神託(しんたく)を受けられ、そのことを推古天皇様に奏上されたのがはじまりです [ミステリー小説]

 2005年(平成17年)9月 宮島

 富士山から帰った翌日の午後高見刑事は宮島観光推進協会の事務所に現れた。
 「どうですか、神田(かみた)さん。よくお休みになれましたか?」高見刑事はいくぶん眠そうな顔で椅子に腰掛けた。
 「もう、グッスリです。それに、もう、出勤前には山を走ってきました」神田はいくぶん右足を引きずりながらコーヒーサーバーのところへ行った。

 「ほう、それは大したもんです。まだ、若いですね」高見刑事も足をさすりながら神田を眺めている。
 「当たり前ですよ」いく分自嘲気味に言って顔を引き締め「ところで、何か進展でも」カップにコーヒーを注ぎながら尋ねた。
 「たいしたことじゃありませんが。例の中国大使館の三人組、今朝、成田から帰国したそうです」白髪頭に手をやった。
 「えっ、そんな簡単に出国できるんですか?」コーヒーをテーブルの上において、高見刑事のほうに押し出した。

 「ま、そんなもんですよ」高見刑事は投げやりにそう言うと「今日は、ちょっと、神田さんと推理ごっこをしようと思いましてね」と、話を変えた。
 「そうですね。ここまでの話をまとめておきましょう」神田もそれを考えていたところだった。
 「えーと、まず、ここまでの事実から行きましょうか」高見刑事は手帳とボールペンをポケットから取り出し、話し始めた。



 「宮島の鉄の棒は枕崎台風の時の土砂崩れで山頂から流されてきたという可能性もありますよね。ということは、鉄の棒は宮島の山頂、そして、もうひとつは富士山頂にあった、ということになりますね」高見刑事はさらに、
 「そして、今は、その二つとも何者か分からない大男の手元にある」と、大きく息を吐いた。

 「それを何故だか中国も狙っている」神田は付け加えた。
 「宮島と富士山。この共通項は?」高見刑事はそう言って神田の顔を見た。
 「両方とも信仰の山ですよね」神田は腕組みをして答えた。
 「宮島にはもともと社殿はなく、島そのものが信仰の対象となって、対岸から拝まれていましたし、富士山も山そのものが信仰の対象だったらしいですからね。今の富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)に遷座される前の神社は山宮浅間神社として現存していますし」神田はこれまでに調べたことも高見刑事に話した。

 「来年がその遷座されて1200年に当たる年だと言われていましたね」高見刑事は、富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)の社務所に貼ってあったポスターを思い出した。
 「そうですね。そして、単純に言って、宮島は海の神、富士山は山の神」
 「御祭神は市杵島姫(いちきしまひめ)をはじめとする宗像三神(むなかたさんしん)の女性の神様、そして富士山も木花咲耶姫(このはなさくやひめ)という女神。でしょ?」高見刑事は確認するように神田に聞いた。

 「それに、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)は富士山の噴火を鎮(しず)めるために祀(まつ)られた水の神でもありますよ」神田は付け加えた。
 「へー」高見刑事は、感心したように何度かうなづいた。
 「昔、富士山が大噴火をしたため、周辺住民の生活が疲弊したのを第11代垂仁天皇が心配して、浅間大神(あさまのおおかみ)を祀ったところ、噴火が静まり、住民は平穏な日々が送れるようになったということです」
 「その浅間大神(あさまのおおかみ)とは?」
 「木花咲耶姫(このはなさくやひめ)と同一とみられているようですね」
 「両方とも水の神様か」高見刑事は両手を頭の後ろで組んだ。
 その時、宝物館の館長が入ってきた。



 「ああ、刑事さんもご一緒でしたか。ちょうどよかった」そういって宝物館の館長は空いている事務椅子を引き寄せ、それに腰掛けた。
 「ありましたよ」そう言って封筒からファイルを取り出した。
 「何ですか?」神田は、カップにコーヒーを注ぎながら聞いた。

 「例の鉄の棒のエックス線写真です」ファイルに挟まれたやや古びた写真を取り出した。
 「どこにそんなものが?」高見刑事は館長の手元を覗き込んだ。
 「発見者の自宅にですよ。あれはまだ、正式には調査されていなかったのですが、当時の発見者が、戦後何年かして、あの棒が何なのか知りたくて、知り合いの医者に検査を頼んだらしいんですよ。そのときの写真です」そう言って、テーブルの上のコーヒーカップを端に寄せ、
 「鉄の棒には間違いないようですが、中に、ほら、ここに、矢のような影が見えるでしょ?」
 「矢?弓矢の矢?ですか?」
 「そんな風に見えますね。その矢のようなものを鉄で封じ込めて、さらに表面を鉄の板で巻いてある、こういうことのようですね。ただの鉄の棒じゃなかったんです」
 「年代とか、表面の文字だか模様だかの意味は?」
 「分かりません。あるのは、この写真だけですから」
 「矢を鉄で固めて棒状にした?何のために?」



 神田(かみた)、高見刑事、宝物館(ほうもつかん)館長、三人とも腕組みをして押し黙った。
 神田は、テーブルの上の写真をもう一度手に取り、
 「矢というのはこんなになっているんですか?」館長に尋ねた。
 「はい、正確に言うとこれは矢尻ですね。これが矢の柄の部分に入っていて、たとえば身体に突き刺さった矢を引き抜いても、先のこの部分、矢尻は固定されていないので身体に残る仕組みになっているんですよ」自分の身体に、高見刑事の手から取ったボールペンを当て、身振りを交えて説明を始めた。

 「この矢尻の形は、おそらく戦闘用の柳葉(やないば)と言われるものでしょう」
 「いつごろのものでしょうか?」高見刑事は神田から写真とボールペンを受け取り、写真を見ながら聞いた。
 「鉄を分析すれば分かるんでしょうが、これだけだとなんとも。平安以降だとは思いますが」館長はコーヒーカップを手にして答えた。

 「平安。源平か」神田は体を起こして高見刑事の方を向いた。
 「さっきの続きですが、平氏の宮島、源氏の富士山とも言えますね。頼朝は、鎌倉から富士山を見つめていたでしょうから。富士の裾野で狩を楽しんでいたし、当時は今と違って気温は何度か低かったでしょうから富士山も雪に覆われている期間も長く、雪の量も多かったでしょうからね。頼朝の頭の中には白く輝く富士山が印象深く残っていたと思いますよ。紅葉を白く覆ってゆく雪に自らの思いを重ねたという可能性はあるんじゃないでしょうか?」
 「朱(あけ)の大鳥居と雪を被った富士山。平氏の赤に対抗して源氏は白を御旗の色にしたのかな?」高見刑事は腕を組みなおした。
 「何の話ですか?」コーヒーを一口のみ高見刑事の顔を見た。



 高見刑事は、捜査に協力を求める必要もあると考えて、富士山での出来事を宝物館館長に話した。
 「なるほど、宮島と富士山の共通項ねぇ。確かに、西、東、赤、白、女神、平清盛、源頼朝、ここまでは話に繋がりがあるようには思えますが、それらと鉄の棒がどうして宮島の弥山(みせん)と富士山頂にあったのか、それと、中国との関係は?」館長は大きな目で高見刑事を見つめた。
 「そこになると皆目(かいもく)謎ですね。さらに、あの大男が絡んでますし。あっ、ところで、神田(かみた)さん、写真、プリントアウトしてもらってますか?」
 「ああ、はい」神田は事務服のポケットから写真を数枚取り出し、テーブルの上に一枚ずつ並べていった。

 「これです。画素が荒くて、おまけに、ブレてますからはっきりとは写っていませんでした」
 「ちょっと拝見。何ですか?このパラグライダーは?真っ黒ではっきり分かりませんが、登山者ですか?」館長はそのうちの一枚を手に取った。
 「いや、あの、どうやらこの男が宝物館の鉄の棒を奪った奴だと思われますが」高見刑事は館長から写真を受け取り、それを見つめながら言った。
 「しかし、真っ黒でまるで烏(からす)が飛んでいるようですね」館長は、その写真を高見刑事に渡しながらつぶやいた。
 「でも、神田(かみた)さんが奴と会った時は黒くなかったんでしょ?」高見刑事は神田に尋ねた。
 「ええ、たぶん黒く塗っていたのが、あの雨で落ちたんじゃないかと・・・」
 「なるほど。でも、体を黒く塗る必要がどこにあるんですか?」高見刑事は写真から神田へ目を移して聞いた。
 「闇夜の烏って言うじゃないですか。目立たなくするためでしょう」神田は写真に目を落としながらコーヒーをすすった。
 「それなら、裸になる必要はないんじゃないですか?」高見刑事はさらに疑問を口に出した。

 「あの・・・」館長が口を挟んだ。
 「はい?」高見刑事は館長を見た。
 「宮島の神使(しんし)は烏(からす)ですよ」



 「神使(しんし)というと?」高見刑事は館長の顔を見つめた。
 「神様のお使いですよ。春日大社の鹿とか、八幡神社の鳩とか」神田(かみた)は、そう言いながら、富士山本宮浅間大社の神使は猿だということを思い出した。「烏男(からすおとこ)と鉄の棒、宮島、富士山、どういう繋がりがあるのだろうか?」そう思いながら、神田は目を閉じて高見刑事と館長の会話を聞いていた。

 「宮島は、鹿でしょ?」高見刑事は驚いたように聞いた。
 「一般には鹿ということになっていますが、宮島の言い伝えでは、神社の創建には烏(からす)が非常に大きな役割を担(にな)っているんですよ」神田(かみた)はテーブルの上の写真を整理しながら言った。
 「といいますと」高見刑事は説明を求めるように館長を見た。館長は、大きな目を見開いて説明を始めた。

 「宮島に神社が最初に創建されたのは推古元年、593年のことですが、そもそも宮島に神社を創建するきっかけになったのは、この地方の豪族、佐伯氏が市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)から宮島に神殿を作るようご神託(しんたく)を受けられ、そのことを推古天皇様に奏上されたのがはじまりです」そう言って、コーヒーカップを手に取った。

 「天皇様に宮島に神殿を創建させて頂きたい旨を奏上(そうじょう)している際に、市杵島姫命のご神託どおりに烏(からす)が榊(さかき)をくわえて宮廷に現れ、天皇様も痛く感動され、神殿を作ることを許可された、ということです」
 「へー」高見刑事もコーヒーカップに手を伸ばした。
 「そればかりでなく、神殿を造営する場所も、烏(からす)の導きによって今の厳島神社のある場所に決められたのです」館長は、ここまで言って、コーヒーを一口飲んだ。

 「宮島では、何百年もの昔から今日まで、その故事に倣(なら)いお烏喰式(おとぐいじき)という行事が行われているんですよ」神田(かみた)は館長の説明に付け加えた。さらに、
 「当時、神殿の造営場所をどこにするか決める際に島を船で廻ったのですが、この行事は、その時と同じように島を廻るのです。そして、途中で、弥山(みせん)から飛んでくる烏(からす)に団子を食べてもらうのです。今でも烏は、団子を食べに飛んできます」
 「へー」高見刑事には初めて聞くことばかりであった。
 「言い伝えでは、佐伯氏が神社の場所を決める際にも、烏(からす)が弥山(みせん)山頂から飛んで来て団子を食べ、そのまま船を今の厳島神社の場所へ案内したということです」
 「厳島神社の入り口、東回廊の手前の灯篭には、その言い伝えに倣(なら)っ て烏(からす)がとまっていますよ。このことに気が付かれる方は少ないのですがね」 



 「弥山(みせん)から烏(からす)が飛び立つ、・・・」
 神田は、あの大男は、富士山の剣が峰から飛び立ったのと同じように弥山(みせん)山頂からもパラグライダーで飛び立ったことは間違いないだろうと思った。

 「山頂のレストハウスの主(あるじ)が見た時は男は大きなザックを背負っていた。それが、俺が会ったときには何も持っていなかった。台風の日の前日、弥山山頂の岩場のどこかにザックを隠して、鉄の棒を奪った日か、その翌日には山頂から脱出したのだろう。しかし、その後はどうやって富士山まで行ったのか?誰かの協力なくしてはとても出来そうにないが・・・」そんなことを考えていた時、高見刑事は立ち上がった。内ポケットから携帯電話を取り出し、窓際に移動して話し始めた。

 「はい、高見です。・・・ああ、これはどうも、昨日はお世話になりました。・・・はい、・・・あ、そうですか。それは助かります。・・・では、近日中に、またそちらへ伺い、・・・え?・・・こちらへですか?・・・それはまた、・・・で、お名前は?・・・」
 どうやら富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)の宮司からのようであった。
 「じゃあ、私は、これで。写真はお預けしておきますから」そう言って館長は立ち上がり、ドアの方へ向かった。
 「ありがとうございました。いろいろ助かりました」神田は椅子から立ち上がり、頭を下げた。高見刑事も電話で話しながら、館長に頭を下げた。

 「宮司さんからですか?」
 「ええ、あの、八頭神社(はっとうじんじゃ)の宮司さんと連絡が取れたようです」高見刑事は携帯電話を閉じてポケットに納めた。
 「ああ、それは良かった。で、どちらに?」
 「お住まいは、あの神社の近くのマンションらしいです。宮司さんはそこから神社の社務所に通っておられるとか」
 「じゃあ、近々またあちらに・・・」
 「いや、それが、こちらに来ていただけるようです。旅行のついでだからということらしいです」
 「それは、好都合ですね。いつ?」
 「明後日の午後2時頃、この事務所を訪ねられるとかで、もう、あちらは発たれたようです。私も時間に合わせてこちらに伺います」



 「ところで、神田(かみた)さん、ダイエット中の神田さんにピッタリの料理屋さんがあるんですが、今晩どうですか?」そう言いながら、コーヒーカップを持った手を軽く上へ上げた。
 「いいですね。どこにあるんですか?」
 「廿日市(はつかいち)の駅前通りです。広電の電車で行けばすぐですから。私は時間まで島内を観光しています。ちょっと、調べたいこともありますし。コーヒーご馳走様でした」高見刑事はそう言って立ち上がった。
 「じゃあ、5時過ぎに、フェリー乗り場ということで」神田も立ち上がり、右手を上げた。

 その日の夜7時前、神田と高見は広電廿日市(ひろでんはつかいち)で下車し、商店街をJR廿日市駅方向へ歩いていた。
 「学生時代とくらべると、この通りも何だか寂しくなりましたね」神田は、時間もさほど遅くはないのに、すでに人通りの少なくなった商店街をきょろきょろと見ながら歩いた。店の様子も随分変わっている。

 「学生時代って言うと、大学?」高見刑事は神田の方を振り向いて聞いた
 「いえ、高校時代です」神田は商店の看板を見ながら返事をした。
 「じゃあ、神田さんは生まれも育ちも広島ですか?」高見刑事は歩道脇にある石の階段をいくぶん足を引きずって下りていった。
 「そうです。高校も地元ですし、大学も広島ですから。大学を卒業して今の宮島観光推進協会に勤めましたからね」神田も高見刑事の後に続いた。
 薄暗い小路の奥に小さな、飲み屋風の入り口が見える。濃い弁柄(べんがら)色に塗られた引き戸は腰から上には障子紙が貼ってあり、縄のれんを通して電球色の灯りがもれている。軒下の赤提灯には、くずした平仮名で「おとみ」と書いてあった。



 「ここにはよく?」
 「いや、年に一回くらいですかね」そう言って、ゴロゴロっと引き戸を開け、高見刑事は入って行った。
 神田(かみた)も後ろに続き、後ろ手で戸を閉めた。重そうに見えた戸もそれほどでもなく、ゴロゴロ、トンッ、と閉まった。

 店内はやや薄暗く、突き当たりのカウンターは6席くらいで、若い男性客が端で日本酒を飲んでいる。三和土(たたき)の土間には一畳ほどの大きさの木のテーブルが2枚置かれ、木の丸椅子が、それぞれ5、6脚その周りに置いてある。左奥には畳の小部屋もある。その小部屋にも一畳くらいの大きさのテーブルが置いてあり、サラリーマン風の中年の男性客が三人、何やら小声で話しながら食事をしていた。カウンターの中の壁には、こういう場にはそぐわない神棚が祀ってある。

 「神田(かみた)さん、こっちへ」高見刑事は神田を手招きしてカウンター席へ呼んだ。
 店主が手ぬぐいの鉢巻を取り、
 「こりゃ、どうも」と、挨拶にやって来て、深々と頭を下げた。
 「やあ、久しぶりだね。その後どうだい?」高見刑事は右手を軽く上げて椅子に腰掛けた。
 「まあ、ぼちぼちでござんすよ」店主は鉢巻をはげた頭に閉めなおした。やや長めの白髪が後頭部で垂れた独特の髪形をしている。見ようによっては注連縄(しめなわ)にぶら下がる紙垂(しで)のようにも見える。60を少し出たくらいであろうか。

 「しかし、お久しぶりでござんすね。一年振りくらいでござんしょうか?旦那もお変わりなく?」男はいくぶん前かがみになり尋ねた。
 「ござんす?・・・」神田はチラッと高見の顔を見たが、高見は、
 「ああ、ありがとう。何とかね」と、神田の視線は無視した。
 「そいつは良ござんした」
 「おい、おとみ、高見の旦那がお見えになったぞ」暖簾(のれん)の奥へ声をかけた。

 「まあ、まあ、これは高見さん」暖簾をくぐって品のよさそうな女が前掛けで手を拭き拭き出てきた。
 「奥さんもお変わりなく」
 「お蔭様で、貧乏暇なしです」手ぬぐいで神田と高見刑事の前のカウンターを拭きながら答えた。
 「それが一番だよ」
 「ところで、今日は何か?」男は、女将から受け取ったオシボリをカウンターに置きながら不安そうに聞いた。
 「いや、いや、ちょっと鉄さんの顔が見たくなってね」
 「へへ、こりゃ、面目ねえ」そう言うと、安心したかのように右手を頭にやり、軽く頭を下げた。
 「で、こちらさんもやっぱり」と高見刑事を見たまま聞いた。
 「いやいや、こちらはちょっとした知り合いで」高見刑事は大げさに手を顔の前で振りながら答えた。
 「神田(かみた)といいます」神田はオシボリで手を拭きながら頭を下げた。
 「へい、こりゃご丁寧に、山田鉄男と申しやす」男は恐縮したように深々と頭を下げた。

 「あっしゃ、また、こちらさんも高見さんとご同業かと」高見刑事のほうへ向き直って言った。
 「そんな風に見えますか?」神田は笑いながら言った。
 「へい、その拳(こぶし)や肩の張り具合は素人さんには見えやせんぜ」山田と名乗った板前は神田の体をしげしげと見て低い声で言った。
 「おい、おい、相変わらず、深読みするねえ」高見刑事も笑いながら言った。
 「へへ、こりゃ、面目ねえ」山田は右手を頭にやって再び頭を下げた。



 「とりあえず、熱燗(あつかん)を。神田さんいいですか?」高見は神田に聞いた。
 「はい。いいですね」そういいながら、改めて店内を見渡した。壁は漆喰(しっくい)で仕上げてあり、腰板はこれも、濃い目の弁柄仕上げだ。店の真ん中には太い柱が建っており、天井には、煤(すす)けた梁(はり)が1本渡してある。古民家の材料を使った建て方のようだ。
 「へい。承知いたしやした。おい、おとみ、高見の旦那に熱燗を」山田は奥に声をかけた。
 「あいよっ」奥から元気のいい声が返ってきた。
 「で、今日は何をお出しいたしやしょう?」山田は包丁を拭きながら尋ねた。
 「そうだな」そう言って壁に貼られた品書きを眺めて、
 「神田さんは?」と神田に声をかけた。
 「えーと」と言いながら品書きを見てもそこには判読不明の漢字が並んでいた。 
 「高見さんのおすすめに従います」
 「じゃあ、鉄さん、コースで頼むよ」
 「へい、承知いたしやした」そう言うとすばやく料理にかかった。

 「どういうお知り合いなんですか?」神田は顔を伏せて小さな声で尋ねた。
 「あー、まだ、私が若い頃ね、彼も若くてね。いろいろあって」と、意味の分からない返事をした。
 「そうですか」と、神田もそれ以上は聞かなかった。



 「お待たせをいたしました」女将さんが徳利と杯を運んできた。やや大ぶりの徳利(とっくり)に、これも大き目の杯(さかずき)だ。白和(しろあ)えが突き出しだ。
 「ごゆっくりどうぞ」女将さんはそう言って奥に引っ込んだ。

 「ま、一杯」高見刑事は神田に徳利を向けた。
 「ありがとうございます」杯を両手で持って受けた。
 「どうぞ」神田は高見刑事から徳利を受け取り、高見刑事に酌をした。
 「ここのお酒は出雲の酒ですよ。まろみがあっておいしいですよ」高見刑事も杯を両手で持って酌を受けた。
 「じゃあ、お疲れ様でした」杯を上に上げ、それから、ふたりともグビッと杯半分くらいを飲んだ。
 「うーん、うまい」と、神田(かみた)は言い、杯を下ろした。
 「でしょう、さばけもよくてね」高見刑事は自慢げに神田の顔を覗き込むようにして言った。

 神田は突き出しに箸をつけた。さいころに切られた柿に、塩で味付けされた白和えが程よく合い上品な味だ。
 「へい、お待ち」山田がカウンターの上に料理を出した。
 「茄子のなめこおろしがけでござんす」
 「へー、おいしそうですね。大将は、この道長いんですか?」
 「へへ、面目ねぇ。包丁持ったのは、随分と昔のことでござんすがね・・・へへへ。もっとも、その時分にゃ、野菜は切っちゃいませんでね」



 「鉄さんは、昔は匕首(あいくち)の鉄と呼ばれて、その筋じゃちょっとした有名人だったんですよ」料理に箸をつけながら高見刑事は言った。
  「へへ、面目ねぇ。若気の至りってやつでござんすよ」山田は顔を上げずに次の料理にかかっている。

 「何だか訳ありですね」そう言って高見刑事に酌をした。
 「いやー、たいした訳なんぞありゃしやせん。その道から、お救い下すったのが、こちらの旦那でござんすよ」
 「へー」そういう繋がりだったのか、と、ふたりを見た。
 「いいのかい、そんなにペラペラしゃべっても」神田に酒を勧めるように徳利を持った。
 「へへ、良ござんすよ。もう、40年以上前のことになりやすかね。あっしも血気盛んな頃でしてね。その頃、広島ではちょいと知られた一家の会長にかわいがられていやしてね。それを好いことにあの頃は無茶したもんでござんすよ」そう言いながら、見事な包丁捌きの音を出した。神田は、山田が、時々包丁を拭う左手の小指と薬指の2本は第二間接から先がないことに先ほどから気がついていた。

 「その会長は、お人の出来たお方でござんしてね。あっしらのような下っ端にも情の厚い、いいお方でござんした。ところが、その会長の後継者って野郎、会長の息子でござんすがね、皆から、若、若、って呼ばれて、調子付いて、こいつが、全くの世間知らずって言うんですかい」話しながらも包丁の動きには淀みがない。

 「若けえもんを虫けらのように扱う野郎でござんしてね。それに、もう、なんかありゃあ、チャカを持ち出し、終めぇにゃあ、素人衆からもみかじめ料を取ってこいだとか抜かしやがって。会の者もついていかなくなりやしてね、あっしもついに、堪忍袋の緒が切れて、ってわけでござんすよ」
 「へい、野菜の焼きづけでござんす」そう小さな声で言って料理をカウンターの上に出した。

 「ちょうど、その時分は、県警の取り締まりも厳しくなって来やして、ここいらが潮時かと・・・時代でござんしたねぇ」そう言いながら顔を上げ包丁をふきんで拭(ぬぐ)った。
 「会を抜けるときにゃ、こちらの旦那にゃ、そりゃあもう、口では言えねえくれえのお世話になりやした」頭を下げた。
 「もうあの頃のこたあ、思い出すのもイヤでござんすよ」山田は軽く頭を振った。
 「いや、悪いことを思い出させてしまいましたね」小さな声で神田は言った。
 「いやいや、良ござんすよ。たまにゃあ、昔のことも振りかえらねえと、これからの行く道も見えなくなるってもんでござんすよ」



 「今となっちゃあ、何にも悔やむものはござんせんがね。ひとつだけ、気になっていることが有りやすんで」山田は、遠くを見つめるような目をした。
 「あっしも、いっぱしに子分を抱える身分になりやしてね。ある若けえ者んを会に引き釣り込んだんでござんすよ」山田は次の料理にかかった。

 「その野郎は純な野郎でござんしてね。腕っ節も立つし、さっぱりしてるし。あっしが会を抜けるときにも、その野郎にも、一緒に抜けるように言ったんでござんすが、そいつも義理堅い野郎でござんして、会長への義理を果たすまでは会に留まると言い張りやしてね。どうやら、おっ母さんの薬代を会長から借りていたようなんで」再び、小気味良く包丁の音が響いた。
 「あー、郷戸(ごうど)のことかい?」高見刑事は思い出したように言った。

 「郷戸!!」神田は思わず声を出した。
 高見刑事は、杯を持ったまま、
 「あー、びっくりした」と背筋を伸ばした。
 「郷戸のことは鉄さんからも何度か相談されたからね。憶えてるよ」
 「神田(かみた)の旦那も郷戸のことをご存知なんで?」そう言って、神田の拳に目をやり、一瞬にして全てを理解したようだ。
 「あっ、そうでござんしたかい。あっしが会を抜けてすぐ、大木会と学生さんの大立ち回りがありやしたが、ひょっとしてその時の拳法部の・・・」
 「はい。そうです」

 「おや、これは初耳ですね」高見刑事はこぼれた酒で濡れた手をオシボリで拭きながら神田を見た。
 「で、その郷戸(ごうど)って人はその後?」
 「あの後、若の息子がチャカでケリをつけようとしたのを邪魔したとかで、会から、と言っても、半身不随になった若の野郎ひとりの指図ですがね、命を狙われるようになりやして姿をくらましやした」
 「鉄さんは、その郷戸の消息を?」高見刑事は尋ねた。
 「それから、しばらくして、ありゃあ、いつ頃だったでござんしょうか・・・おい、おとみ、郷戸から葉書が来たのは何年ぐれえ前だったか、お前え、覚えちゃいねえか?」山田は奥に向かって声をかけた。

 「あれは、鉄太郎が小学校1、2年頃だから、昭和47年(1972年)頃の暮れだったと思います。簡単な文面で、義理を欠いて申し訳ない、とか、このご恩は一生忘れませんとか、そんな風なことが書いてありましたね。全くあの人らしくて・・・」奥の座敷の客にお酒を運びながら、思い出し、出し、言った。
 「で、その葉書はどこから?」神田は山田の方に向き直って聞いた。
 「消印はタイでござんした」
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第7話 熱風!!バンコク 1972年(昭和47年)11月 タイ 首都バンコク [ミステリー小説]

 1972年(昭和47年)11月 タイ 首都バンコク

 「も〜っ、エエ加減にせんかいなー。ワテも終(し)まいにゃ、怒るでー、あんたらぁッ」
 そう日本語で言いながら、中年の額(ひたい)が禿(は)げ上がった男が、人混みを掻き分けて小走りでやって来た。周りのタイ人や、白人のアベックのヒッピーや観光客達は、何事が起こったのかと振り返ったり、追い越された男の後姿を目で追った。その中年男の後ろから5、6人の日本人が追いかけて来た。

 「エエ加減にせぇ言うとるやろ」と、少し大きな声で振り返って言った拍子に、男の体が屋台のテーブルに「ドンッ」と当り、テーブルが大きく揺れて、客が食べていたトムヤングンが鍋ごと道へ音をたてて転がり落ち、客の男達の怒声と共に白い湯気が上がった。落ちたエビはさっそく野良犬の夕食になった。

 郷戸一星(ごうどいっせい)は、安定の悪いテー ブルで、ちょっと酸っぱいタイチャーハンを食べながら生ぬるいシンハービールを飲んでいたが、テーブルが揺れる直前にフォークは口にくわえ、チャーハンの皿とビール瓶を持ち、立ち上がっていた。

 先程からこのテーブルでは、郷戸と一緒に三人の男達が、トムヤングンを食べていた。でっぷりと太った男は、シャツの前をはだけ、買ったばかりの黒ズボンの裾(すそ)を捲(めく)り上げて、汁を飛ばさないように気をつけながら食べていた。髪の毛をきれいに刈り上げた男は黒いシャツの裾(すそ)をよれよれのグレーのズボンの上に出し、へらへらと太った男に愛想笑いをし、遠慮しながら鍋から具を自分の皿に少しずつ移していた。もう一人の男は前歯のない口を開け、1本だけ残っている下の歯をいじりながら、時々、郷戸の方を見ては、何やら二人に言ってはニタニタと笑っていた。三人ともシャツの袖(そで)からは刺青がのぞいていた。



 テーブルが大きく揺れて、 男達の食べていたトムヤングンが鍋ごとひっくり返り、太った男のズボンにかかった。太った男は、怒鳴りながら、新しいズボンにくっついた野菜の切れ端を払い落とし、テーブルの上に残った皿を右手で掴(つか)んで、ぶつかった日本人の顔めがけて投げつけた。皿は男の左頬に当たりはじき飛んだ。
 「あー、堪忍(かんにん)してーッ」男は両の手のひらを広げ太った男の方に向け細(こま)かく動かした。
 髪の毛を刈り上げた男が左手で男の襟首(えりくび)を掴み、右手で思いっきりその男の左頬を殴った。男は、たった今飛び散ったトムヤングンのスープと具の上に、ザッ!!と半回転して前のめりに倒れこんだ。その瞬間、野良犬は、さっと横へ1mほど逃げたが、犬はそこで振り向き尻尾を後ろ足の間に巻き込んだまま、再び、目の前にあるエビの魅力に負けて戻ってきた。

 前歯のない男がゴムぞうりを履いた足で倒れこんだ男の背中を2、3度踏みつけた。
 男の小奇麗な白いシャツにはゴムぞうりの黒い跡が残った。



 追いかけてきた男達は、突然、倒れた男の写真を撮りはじめた。フラッシュが「パッ、パッ」と光ると、辺りの野次馬は余計に増えてきた。太った男は、自分の濡れたズボンが足にくっつくのを防ぐように両手で両腿(りょうもも)の部分をつまみながら倒れた男のところに近づくと、倒れた男の腹を思いっきり蹴り上げた。追いかけてきた男達は、なおも写真を撮り続けている。

 「ググッ・・勘弁してーな・・」倒れた男は、なおも日本語で力なく言った。
 「ゲフッ、あんたら、・・・もう、エエ加減にしてーな・・・」そう言って立ち上がろうとしたが、前歯のない男が中年男の足を払った。また、男は地面にひっくり返った。太った男は地面に転がったステンレスの鍋を拾い上げ、倒れた男の側頭部めがけて振り下ろした。
 太った男は振り下ろした手が、スカッ、という感じで、手が急に軽くなり、体のバランスを崩しそうになった。そして、鍋が「カーン!!」という音と共に5m向こうに飛んでいった事にようやく気がつき、空(から)になった右手を見た。

 郷戸(ごうど)は、フォークを口にくわえ、左手に皿を持ち、右手はビール瓶から木の棒に持ち替えて立っていた。男達には、どうして鍋が吹っ飛んだのか分からなかった。



 太った男が何やら低い声で郷戸(ごうど)に言った。郷戸には何を言っているのか理解できなかった。男はもう一度何かを言った。それでも郷戸は、口にフォークをくわえ、左手にはチャーハンが半分ほど載った皿を持ち、右手には1、5m程の丸棒を持って立っていた。男達は1mほどの間隔を置いて郷戸を要(かなめ)にした扇形に三人並んで立った。太った男が刈り上げ頭の男へ顎をしゃくって何やら言うと、刈り上げ男はニヤニヤ笑って、左手で服の裾(すそ)をまくり、右手でズボンのベルトに挿していた黒光りのする自動拳銃を引っ張り出した。

 取り囲んでいる写真を撮っていた日本人達や、白人ヒッピーや観光客、野次馬のタイ人達に一瞬緊張が走り、それまで囲んでいた輪が一斉に広がった。

 倒れている男は、両手を支えにして、尻をついたまま拳銃を見つめていた。その隣では野良犬が、「ぺチャ、ぺチャ」と音をたてて、こぼれた汁をなめている。真ん中に太った男、その左に歯ナシ男。右に拳銃を持った刈り上げ男。
 刈り上げ男は何やら言いながら銃口を郷戸(ごうど)の方に向けた。太った男は、目は郷戸に向けたまま、緊張した顔で、刈り上げ男に何やら言うと、刈り上げ男は薄っすらと額に汗を浮かべながら、左の手の平で銃把(じゅうは)の尻を支える様にして銃口を郷戸の顔に向け、右手の人差し指でゆっくりと引き金をしぼり始めた。



 「本気で撃つつもりだろうか?」郷戸(ごうど)は判断に迷ったが、両手を広げてゆっくりと上へ上げた。そして、左手のチャーハンの皿を持つ指を広げて、野良犬の頭の上に落とすと、ビックリした野良犬は「キャン」と短く鳴いて飛び上がった。辺(あた)りの緊張が途切れたその瞬間に、空いた左手で口にくわえたフォークを銃を持った刈り上げ男の右肩へ投げた。フォークは飛ぶ姿も見せずに狙ったところに突き刺さり、刈り上げ男の銃を持った手が、「グッ!!」と言う声と共に右へ揺れた。フォークが郷戸の左手を離れると同時に右手に握られた棒は振り上げられ、太った男の鼻先をかすめた。



 振り上げた棒を、左手に持ち替えてそのまま歯ナシ男の口の中に差し込み、グイッ、と、一押ししておいて、刈り上げ男のみぞおちを右足で蹴った。刈り上げ男が倒れる寸前に郷戸はその男の右手を掴(つか)んでひねり上げ、自動拳銃を奪った。 太った男は右手を振りかぶり、前に出ようとしたとき、鼻がスーッとした感覚に捉(とら)われた。男は左手で鼻を触るとあるはずの左の小鼻がないことに気が付き、左手で鼻を覆い、右手を振り上げたまま動かなくなった。

 「この技はなんだ!?」男達にとっては初めて見る技だった。
 郷戸は、歯ナシ男の口から棒を抜いた。その拍子に1本だけ残っていた下の歯がポトンと地面に抜け落ち、野良犬がパクッと食べた。引き抜いた棒を太った男の鼻先に突きつけ、そのままゆっくりと通りの向こうへ向けた。太った男は、郷戸の意味することを理解し、細かく頷(うなづ)き振り向いて、ゆっくりと歩き始めた。野良犬は、「カッ!!」と、歯を吐き出した。男達が背中を見せた時、郷戸は自動拳銃の弾装(だんそう)を引き抜いた。そして、スライドを後ろに引っ張り、薬室内の弾を落とし、
 「ヘイ!!」と男達の背中に声をかけた。男達は、ビクッ、と肩を動かし、ゆっくりと振り返った。
 
 郷戸は、刈り上げ男に向かって銃を放った。刈り上げ男は右肩を押さえていた手の腕と胸の間で銃を受け止め、太った男と顔を見合わせて、「どうしようか」と、迷った顔をしたが、そのまま去っていった。
 男達が去ると、たちまち、先ほど追って来た日本人達が近づいて来て、カメラを構えた。郷戸は、男達に、ダッ、と近づき、3台のカメラを棒で叩き落し、リーダー格の男の顔先に棒を向け、「ゴー」と言った。
 男は、
 「少しお話を・・・」と言ったが、郷戸は日本語が分からない振りをして、再び、
 「ゴー」と、強く言った。男達は、カメラを拾い上げながら、
 「なんだ、日本人じゃねぇのかよ。今日のとこは引き上げるか。ひでえな、このカメラ、使えるかな・・・」などと言いながら来た方向へ帰っていった。



 郷戸(ごうど)は倒れた男の腕を取り、椅子に座らせると、野次馬達は、もう、これ以上騒ぎが起きないことを知り、ゆっくりと散っていった。郷戸はズボンのポケットから100バーツ紙幣を出し、テーブルの上に置いて去ろうとしたが、男は、
 「ちょ、ちょっと待ってえな、兄ちゃん」そう言って郷戸の腕を掴(つか)み、
 「ほんまに、助かったわー、えらい目におおてしもたがな。おおきに、おおきに」そう言って、頭をテーブルの上にぶつけるように何度も何度もさげた。そして、顔を上げ、上目遣いで郷戸を見、
 「あんさん、日本人だっしゃろ?隠さんでもええがな。ワテにはわかりまっせ」
 郷戸は返事をしなかった。

 屋台の娘がタオルを持ってきて、男に差し出した。男は顔を上げて、
 「?」と言う顔をすると、娘は、タオルを自分の顔の口のところに持って行き、拭く真似をした。
 「あー、そうかいな、おおきに、おおきに」男はそう言って娘からタオルを受け取り、口の端の血を拭き、
 「ほんまに、やさしいなー、タイの女子(おなご)は」そう言いながら腕の泥をそのタオルではたき落とした。

 郷戸は、テーブルの下に置いていたナップザックを掴(つか)んで、棒に引っ掛け、その棒を肩に担いだ。
 「待ってーなー、兄ちゃん」そう言って、ポケットから100バーツ紙幣を1枚取り出し、娘の手に握らせようとしたが、娘は受け取ろうとしない。
 「なんでや、ええから、取っときーな」そう言って無理やり娘の手に握らせた。



 「兄ちゃん、どこ行きまんのや?泊るとこありまんのか?」男は、早足で歩く郷戸の後ろから声をかけた。
 「もうちょっと、ゆっくり歩きいな、ハア、ハア」
 「ついて来るなよ。ごたごたに巻き込まれるのはごめんだ」前を見たまま答えた。
 「あー、やっと喋(しゃべ)ってくれたなー」男は、タタタッ、と、郷戸のすぐ後ろにくっついた。

 「あんた、何をしたんだ?さっきから、さっきの男達とは違う男がついて来てるぜ」早足で歩きながら、男に言った。
 「えっ、ホンマかいなー!?」男は振り返った。
 「あっ、ホンマや。ひつこいなー。タイ警察やがな」
 「タイ警察?あんた何をしたんだ?」
 「兄ちゃん、あんさん、もうワテに関わってしもうたんや」そう言って郷戸の横に並んで顔を見上げてニコッと笑った。
 「ワテ、玉木言いまんのや、よろしゅうな」



 「宿はどこでんのや?」
 「玉木さんと言いましたかね。もう、俺には構(かま)わんでくれ」郷戸は、香港からの飛行機の中で若い日本人のバックパッカーから、安宿街はファランポーン駅の近くの中華街にたくさんあると聞いていた。空港からは汽車に乗って先程駅に着いたばかりだった。腹が減ったので、まず腹ごしらえをと思い席についたところでこの騒ぎに巻き込まれてしまったのだ。

  「兄ちゃん、あんさんも訳(わけ)ありやなぁ」玉木は郷戸(ごうど)の言葉には構わず、ゆっくりと言った。郷戸は、ファランポーン駅の方へ向かって曲がろうとした。
 「あかん、あかん、そっち行ったら、中華街や。日本人だらけや。日本人の追っ手が来ても目立たへんから、追っ手の姿に、気ぃつきまへんで」
 「隠れんのなら、ワテのとこ来なはれ。ワテは、こっちに部屋持ってまんのや」
 「男の言うことにも一理あるな」そう思い男の手に引かれるまま大通りに出た。玉木と名乗った男は、
 「今晩はほんまに助かったわー」と言いながら、人差し指を立てた右手を斜め下に突き出しトゥクトゥクと呼ばれるオート三輪を停めた。そして、
 「マレーシア、マレーシア」と言って座席に郷戸(ごうと)を押し上げ、続いて乗り込んだ。トゥクトゥクは青白い煙と叫び声を吐き出し、熱風を切り裂いて走り始めた。



  トゥクトゥクの座席に取り付けてある小さなサビの浮いたパイプを握った左手の甲には汗が滲(にじ)んでいる。郷戸(ごうど)は手の甲に浮かんだ汗を見ながら、体中の汗腺から汗が出ているのを感じていた。やがて、トゥクトゥクは中心部へと向かい、オレンジ色の灯りが辺りを包み始めた。

 街が叫んでいた。2サイクルエンジンの燃えるにおいと吐き出される咆哮(ほうこう)、ディーゼルエンジンの甘い黒煙と唸(うね)り声が街中を覆い、絶え間なく響き渡るクラクションは街の悲鳴にも聞こえる。

 「え?」
 せやから、さっきからあんさんのお名前を聞いてまんのや」
 「ああ、郷戸(ごうど)」前を見ながら答えた。
 「え?」
 「ご、う、ど」ゆっくりと大きい声で言った。
 「どういう字を書きまんのや」玉木は右手でパイプを強く握り締めながら、郷戸の顔を覗き込んだ。
 「故郷(ふるさと)の ゴウ に扉(とびら)の ト」
 「あーあ、郷戸さん。エエ名前やないいか」大きくうなずいた。
 「故郷(ふるさと) の 戸(とびら) かぁ。エエ名前や」繰り返しうなずき、それからしばらく黙った。

 ふたりを乗せたトゥクトゥクは屋台の並ぶ道路を通り過ぎ、やがて左手に大きな公園を見ると、右へ曲がり、細い路地の中へ入って行った。



 「さ、着きましたで」ヨイショという感じで玉木はトゥクトゥクから降りて、郷戸に聞いた。
 「郷戸(ごうど)はん、あんた、荷物は?それだけかいな?ごっつう、身軽やな」そう言いながら、ドライバーにお金を渡した。

  「この先は行き止まりになってまんのや。なんやしらん、タイの街中は行き止まりが多いてな。こっちやで」玉木は、禿げ上がった額に垂れた髪をかきあげながら、通りの奥へ向かって歩き始めた。狭い通りの両側には小さな雑貨屋や食堂、ゲストハウスが並んでおり、それぞれの店の看板が無秩序に通りへ向かって突き出している。店先のテーブルでは、アメリカやヨーロッパ系の長髪のヒッピースタイルの若者達がタバコをふかしたり、ビールを飲んでいる。彼らは、バイクや、トゥクトゥク、タクシーがクラクションを鳴らしながら行き交っている通りを慣れた足取りで歩いている。

  「ほら、見てみいな。白人のヒッピーばっかりやろ。こんな中、日本人がうろついっとたら、すぐ目に付くで。この先曲がったとこが、マレーシアホテルや」玉木は振り返って郷戸に言った。
 「逆に、俺達の方も目に付きやすいだろ?」郷戸は辺(あた)りを見回しながら聞いた。
 「心配要らん。そんなんペラペラしゃべる奴はこの辺りにはおらへん。逆に、変な奴が来たら、すぐ連絡が入るさかいにな」ははっ、と笑いながら答えた。

 「ここや。おーい、今帰ったでぇ」階段下の鉄格子を握ってガチャ、ガチャ、と、鳴らすと、若いタイ女が「ペタ、ペタ、ペタ」と階段を下りて来て、「ガチャ」と鍵を開けた。女は郷戸を見ると恥ずかしそうにすぐに階段の上に駆け上がって言った。
 「なんや。恥ずかしがっとんのかいな。しゃあないな。ま、上がり」そう言って先になって階段を、ヨイショ、ヨイショ、と上がっていき、階段を上がったところにあるドアを開けた。中に入ると、10mくらいの廊下があり、その左側に3つ木のドアがある。二番目のドアを開け中に入って、郷戸を招きいれた。

 「ま、楽にしてや」そう言って、ソファーを部屋の真ん中に引き摺(ず)ってきて、冷房のスイッチを入れて、部屋を出て行った。しばらくして、タイの若い女をふたり連れて戻ってきた。さっき、鍵を開けた女もいる。
 「郷戸はん、紹介しとくわ。こっちがルミ子で、そっちの若いのんが沙織(さおり)ちゅうんや」
 「・・・」
 「サワッ ディ カー」女達は顔の前で合掌して軽く頭を下げ、ニッコリと微笑んだ。
 「ワテの女房や」



  玉木はふたりの女の肩を抱き、ドサッ、とソファーに腰掛けた。ルミ子と呼ばれた女が玉木の顔の傷に気付き、沙織に何やら言うと、沙織が立ち上がりドアの方へ向かった。玉木は沙織の尻をサッと撫でると、沙織は、「キャキャ」と笑いながら部屋を出て行った。

 「ほんまに、タイの女子(おなご)はかわいいもんや」そう言って、ルミ子に向かってコップで飲むジェスチャーをした。ルミ子もそれを見て部屋を出て行った。
 「郷戸はん、あんさん、ワテが変な男や思うてるやろ」
 「普通じゃないだろ」
 「せらせやなぁ」そう言って立ち上がり、窓を開け、胸ポケットからマルボロを取り出し、外に放って、窓を閉めた。

 「なあに、さっきのタイ警察の兄ちゃんや。あの兄ちゃんもご苦労なこっちゃ」
 「つけてたのか?」
 「いやぁ、あいつら、この場所は知っとんのや」
 沙織と呼ばれた女がタオルと水の入った洗面器を持ってきた。
 「故郷(ふるさと)のドア、か」
 沙織は玉木の横に座り、タオルを濡らして固く絞り、玉木の顔をやさしく拭き始めた。
 「エエ名前やな。郷戸はんはどこの生まれでんのや?」
 「奈良」そう言って立ち上がり、窓の外を見ると、若い私服警官がマルボロの封を切っているところだった。
 「へー、それにしては、訛(なま)りが出まへんな」左手で沙織の肩に手を回しながら聞いた。
 「で、あんさん、何でまたこないなとこまで?」
 「尋問か?」
 「いやいや、気い悪うしたなら、ごめんやっしゃ」沙織の肩に回した手をはずし大げさに手を振った。



  ルミ子がトレーにウィスキーの壜(びん)とコップを載せて戻ってきて、トレーごとベッドの上に置いた。玉木はウィスキーの蓋を開け、琥珀色(こはくいろ)の液体を二つのコップに注いだ。
 「ま、お近づきのしるしに」そう言ってグラスを郷戸に渡し、自分もグラスを持った。
 「これは、タイのウィスキーのメコン言いまんのや」そう言いながら自分のグラスを郷戸のグラスに「コチッ」と当てた。そして、「グイッ」と一口飲んで、
 「フーッ」と息を吐いた。
 郷戸も一口飲んだ。
 「どないだ?サントリーレッドみたいな味だっしゃろ?」そう言って、顎をドアのほうに向け、ふたりの女に出て行くように合図をした。

 「飲み難(にく)いようやったら、これ足しなはれ」そう言って、トレーの上のソーダの壜(びん)を持ち上げた。
 「あんさんのことばっかり聞いて悪るおましたな。ワテは今、チェンマイに住んでまんのや」
 「チェンマイ?」
 「ここからバスで10時間くらい北に行ったとこや。もうちょっと行くとラオス、ビルマの国境や。ええとこやで。ここみたいにジメジメしてへんし」
 「そこで、今のふたりの奥さんと?」
 「いや、女房は20人や」そう言うと、玉木は、グイッ、とメコンを飲み干した。



  「さっきの週刊誌の連中な、あの連中は、それがおもしろおて、タイくんだりまでワテを追いかけてきましたのや」椅子から上半身だけ前に起こして郷戸(ごうど)に言った。
 「週刊誌?ああ、さっきのカメラの連中」
 「ワテのこと、チェンマイのハーレム男、とか言うてな。はははっ。お蔭さんで、大迷惑や」そう言って悲しげな顔をした。

 「ワテの夢はあいつらのおかげでパーや」再びソファーの背もたれに向け背中を倒し目を閉じた。そして、目を開き、
 「郷戸(ごうど)はん、郷戸はんは、こっちに何か予定でも有りまんのかいな」
 「いや、別に・・・」
 「せやったら、2、3日こっちで休んでから、ワテと一緒にチェンマイ、行きまへんか?」そう言って玉木は、ジッと郷戸の顔を見た。
 「こんなとこおったら、金ばっかりかかりまっせ。あんさん、金、持ってまんのかいな」
 「・・・」
 「考えることなんぞ有りまっかいな」玉木は背もたれから体を起こした。
 「そうだな」それも良かろう、と郷戸は思った。
 「よっしゃ、そうと決まったら、ワテも、こっちの用事、早めに片付けまっさ」



 「この部屋、自由に使うとくなはれ。それと、さっきのチンピラ連中な。あいつらには気い付けなはれや」玉木は声を低くして言った。
 「大丈夫だ」郷戸(ごうど)はメコンウィスキーにソーダを加えた。
 「あの銃はな、あれは、スミス&ウェッソンのMK22や。ベトナムでアメ公の特殊部隊がベトコン暗殺用に使うてる銃や」
 「アメリカの特殊部隊が?」
 「せや。アメ公共がベトナム戦線の休暇にぎょうさんこっち来てまんのや。そいつらが小遣い稼ぎに武器を持ち込んで密売しとるんや」玉木は、窓際に立って外の様子を眺めながら言った。

 「ちょうど1年前や、こっちの、なんとか言う首相がな、クーデター起こしよったんや。憲法廃止、議会解散、ってな訳や。本人が言うにはな、中国の文革(文化大革命)が怖い、言うとんのや」
 「へー」
 「何でかいうとな、こっちには何百万人かの中国人がおるしな、その中国人が、中国の手先になって、タイが共産主義化される言うねん。その共産主義化を防ぐには軍事政権しかない、ちゅう訳や」
 「で」
 「そこでや、これは、ワテの推量やがな、休暇で来てるアメ公が、こっちのヤクザに銃を密売しとんのを利用して、今の軍事政権は、タイやくざを市内監視の手先に使うとるんやないかと。ひょっとしたら、アメリカも絡んだ大掛かりな横流しルートがあるのかも知れへん。国絡みのな。」
 「なるほど」
 「せやないと、さっきのあんな特殊な暗殺用の銃があんなチンピラの手には入らへんで」玉木は、ドアのところまで行って振り返り、続けた。

 「せやから、郷戸はん、あんたにもしものことがあっても、闇から闇や。殺され損、ちゅうわけや。助けてもろたワテがこないなこと言うのもおかしな話やが、ゴタゴタには、手ェ、出さんこっちゃな。あとで晩飯食い直しまひょ。それまで、ゆっくりしといてな」そう言うと部屋を出て行った。



 翌日、郷戸(ごうど)は、昼前まで眠った。あれから玉木と向かいの屋台で食事をして、また、メコンウィスキーを飲んだ。疲れもあったのか、ぐっすりと眠った。
 ゆっくりとベッドで上半身を起こし、部屋を出て、廊下の突き当たりにあるシャワー室でシャワーを浴び、部屋に戻るとソファーの上に着替えが置いてあった。

 ペタ、ペタ、ペタと階段を上がる音がしてノックがあった。ドアを開けると、昨夜の屋台の少年だ。少年はタイ蕎麦(そば)をトレーに載せて立っていた。玉木か玉木の女房が頼んでくれたのだろう。屋台は15の少女と12の少年が切り盛りしている。郷戸は少年を部屋に招きいれ、ベッドを指さすと、少年はそこにトレーごと置いた。
 「ありがとう」そう日本語で言うと、少年は、ニコッ、と、微笑み、出て行った。
 外から姉弟で「キャハハ」と笑いあう声が行き交うバイクと車の音に混じって聞こえて来た。俺のことでも噂しているのだろう、と、郷戸は思って、何か月か振りに微笑(えみ)が漏れた。

 大木会の会長の指示で修道館大学へ乗り込んだが、結局、若の仇は打つことが出来なかった。チャカで始末をつけることは簡単だが、それは道義外れだ。学生達の力に負けたのだ。それで良いではないか。

 会としては、組織の県下統一の動きの前に力を誇示し、名前を売りたかったところだろうが、逆に面目丸つぶれになってしまった。大木会の面目を潰したのは、あの学生連中ではなく、それが出来るチャンスを潰した俺だという事になってしまった。
 会長なら分かってくれると思ったが、ベッドで半身不随の若の腹の虫が治まらなかったのだろう。俺を始末しないと、一家も束ねる力もない、と全国の暴力団の笑い草になる、若はいつも世間体を気にして動く奴だった。

 「若では会は束ねられない」郷戸は指を詰めるよりも姿をくらますことを選んだ。香港からバンコク、そして、マニラへ飛ぶつもりだった。
 「しかし、こいつはタイに長居しそうだな」郷戸は、蕎麦(そば)を啜(すす)りこみながら思った。



  蕎麦の皿とトレーを返そうと思って廊下に出て、階段のほうへ行くと隣の部屋のドアが開いていて、玉木が荷造りをしているのが見えた。すでに、白地に赤と青の縞模様の大きなバッグが3個パンパンに膨らんで部屋の隅に転がっていた。
 「ああ、郷戸(ごうど)はん、昨夜はどうもお疲れさんでしたな」玉木は額に垂れた髪をかき上げながら言った。
 「食器はそこらへんに置いときなはれ」
 「まあ、入りなはれ」そう言ってバッグを横にずらした。

 「ワテの用事も明日(あした)で終わるさかいに、明後日(あさって)の朝、早(はよ)うにこっちを発ちまひょか?どないだ?」ポケットからマルボロを取り出し郷戸にも勧めた。郷戸は手を振って断った。
 「そうだな。俺には特別用もないし、今日は夕方から街をぶらついてくる」
 「気ぃつけなはれや。ちょうど雨期は終わったさかいにスコールはありまへんけど、その分、チンピラと不良外人は街にあふれてまっさかいにな。くれぐれもごたごたに巻き込まれんようにしてや」
 「分かってる」
 「どうも、郷戸はん、あんさんには、火薬の臭いがしまっせ。導火線のついてない火薬の臭いや。火花にはすぐ反応しよる」



 日も暮れかかった頃、郷戸は部屋を出た。玉木はどうやらゲストハウスの2階部分を借り切っているようだ。ゲストハウスの1階は雑貨屋になっていて、店の前には、玉木の荷物だろう、段ボール箱や、木箱、ビニールのバッグがトラック一杯分くらい積み上げられている。荷物を掻き分けるように店の中に入って、サングラスと帽子を買った。

 サングラスをかけ、帽子を目深(まぶか)に被(かぶ)り、棒を杖のようにして、いくぶん足を引き摺るような格好で、ぶらぶらと歩き、大通りに向かった。大通りに近付くに従って様々な車のエンジン音やクラクションが大きくなる。角を曲がって、大通りに出た途端、バスやトゥクトゥク、バイクの洪水のような流れに視界が塞(ふさ)がれた。

  昨夜来た方向にしばらく歩くと、通りの向こうにムエタイのスタジアムが見える。
 郷戸はそこで2時間ほどムエタイの試合を観戦した。日本ではキックボクシングとして若者の人気を博し、郷戸も堅気(かたぎ)の頃は、剣道仲間と一緒に見るのを楽しみにしていたが、ここの場内の熱気はすごかった。
 郷戸(ごうど)は、ボクサーの首を抱え込んでの膝蹴(ひざげ)りの連続や、肘打(ひじう)ちなどにも破壊力を感じたが、それ以上に、鞭(むち)のようにしなる足技のスピードに驚いた。実際に闘うと木刀では勝てないかもしれないと思った。



 スタジアムを出るとすっかり日も暮れていた。外には観客目当ての屋台があちこちに出て、どの店も結構繁盛している。屋台で鶏肉焼きを2本食べ、帽子を目深(まぶか)に被(かぶ)りなおし、足を引き摺るふりをしながらながらゲストハウスに帰った。出るときにあった山のような荷物はトラックに積み込んであり、2階の窓から玉木が顔を出してタバコをふかしていた。
 
 「いま、お帰りでっか。どないでした散歩は?いま、鍵、開けまっさかいにな」そう言って顔を引っ込め、「ドン、ドン、ドン」と階段を下りて、「ガチャン」と鉄格子のドアを開けた。

 「せや、郷戸(ごうど)はん、あんさんに受け取ってもらいたいもんがあんねん」そう言って玉木の部屋のドアを開き、中に入った。
 「ま、おかけぇな」そう言って、ソファーの向きを郷戸の方にずらした。扉が開きっぱなしのクローゼットを手前にずらし、クローゼットの背中と壁の間から布に包まれたものを取り出した。

 「これや」布に何重にも巻きつけてある紐の結び目を苦労して解(ほど)き、クルクルッ、っと、紐をはずした。包みの中から一本の杖が出てきた。郷戸には、一目でそれが仕込み杖だと分かった。
 「仕込みか?」
 「せや。分かりまっか」ニヤッと笑い、玉木は右手でその仕込みの中程を握って郷戸の方へ差し出した。郷戸は左の手のひらを上にしてそれを受け取り、右手でポケットからハンカチを取り出して口にくわえ、左手に持った仕込を腰の辺りに持ってきて、右手で、クッ、と、少し手前に引き、スー、と右手を引いて鞘(さや)から刃を出した。やや、細身で肉厚の直刀(ちょくとう)であった。
 「これを俺に?」
 「はいな。差し上げまっさ」



 「あんた、どうしてこんなものを」見事な仕込だと思った。
 「買うたんや」ベッドに腰掛けて額の汗を拭いた。
 「買った?」郷戸は目を切先(きっさき)にやった。
 「せや、ワテは月に一回、チェンマイからこっちに買出しに来てまんねん。ま、その時に、女房を交替で2、3人ずつ観光につれて来てまんのやけどな」胸ポケットからマルボロの箱を取り出した。郷戸は、刃が煙るのを恐れ、手で制した。

 「たまに、現金が必要になった時には、ワテの鉄砲を売ったりして、金にしてまんねん」玉木は渋々箱をポケットに納めた。
 「あんたの鉄砲?」
 玉木はそれには答えず、
 「昨日も行ってきたとこや。ほら、郷戸はんと会うたとこの近くのチャイナタウン。あそこにはな、鉄砲横丁があってな、そこで売って、金にしてまんのや。いつやったか、いつも行ってるとこの親父(おやじ)がな、その親父は残留日本兵や」そういいながら、窓際に行き外を眺めた。
 「そんでな、その親父が、そん時は、逆にそれを買うてくれゆうてな。親父も、もう永うない、死ぬ前に一回日本の土が踏みたい、ゆうてな。そのためには金が要る、言いよってな」



 「その仕込み杖はな、辻政信(つじまさのぶ)の仕込み杖や」窓枠に背を預けて郷戸(ごうど)を見た。
 「辻!」郷戸は思わず声を出して玉木の顔を見た。
 「せや。辻はマレー作戦からシンガポール陥落までに関わった帝国陸軍の高級参謀や」玉木は郷戸が刀を鞘に納めるのを見て、ポケットからマルボロを取り出した。

 「衆議院の国会議員やったんやけどな、つい10年ほど前にこっちで行方不明になったんや」箱から1本取り出し口にくわえ火をつけた。
 「こっち言うても、ラオスやけどな。日本の現職国会議員が勝手に内戦中のラオスを歩いとった、言うんで大騒ぎになってな」そう言って、深く息を吸い、「フーッ」と、長く吐いた。
 「せやけど、その後は行方不明になってしもてな」玉木はソファーに再び腰をかけた。
 「フランスの特殊部隊に暗殺されたとか、CIAに殺(や)られたとか、共産ゲリラに殺られたとか、虎に喰われたとか、そらぁ、もう、いろんな噂がたってな」ベッドの上の灰皿を左手でつまみ膝の上に置いた。
 「今でも、どっかの国の軍事顧問におさまっとる、言う噂まであるんや」灰を、「ポン」と、ひとつ落とした。

 「その辻はな、終戦の時には、ここ、バンコクにおって、しばらくは潜伏するつもりで、形見(かたみ)分け、言うんかな、拳銃やら、軍刀やらを部下に分け与えたんや」
 「そのときのひとつがこれか」郷戸は改めて仕込み杖を眺めた。
 「せや。あの店の親父が、どうやってこれを手に入れたんかは、知らん。ひょっとして、直接貰ろたんかもしれへん」



 郷戸(ごうど)は立ち上がり、窓際に行ってバンコクの暗い空を見上げた。残留日本兵、旧日本軍の参謀、ベトナムから息抜きに来て羽目をはずしている若い兵士、戦争反対を唱えて漂流している若いヒッピー達、そして、俺のような無頼(ぶらい)。
 この街の叫び声は、全てを飲み込んで、また、吐き出している悲鳴かもしれない、と、郷戸は思った。

  通りの向こう側から5人の白人が、大声で歌を歌いながら、危ない足取りでやって来た。その中のひとり、赤毛を短く刈り上げた男は、ビールをビンから直接飲みながら仲間の肩に手を回し、今にも倒れそうな足取りだ。ガヤガヤと、姉弟(きょうだい)の屋台の椅子に腰をかけ、何やら注文しているようだ。同じテーブルでは、先客の白人の女がお粥(かゆ)を食べながら、足元の野良犬に自分の具を分け与えている。

 弟はいつものようにニコニコと注文を聞き、姉に伝え、姉の方は手馴れた手つきでお粥(かゆ)を作り始めた。姉弟(きょうだい)にしてみれば今夜最後の稼ぎになるのだろう、張り切っている様子が良く分かる。



  しばらくして弟は出来上がったお粥をテーブルに運んだ。男達は、犬のようにくんくんと鼻を近づけ臭いをかぎ、大げさに顔をゆがめた。それを見ていた姉弟(きょうだい)は、ちょっといやな顔をしたが、すぐに見ない振りをして食器を洗い始めた。

 赤毛男が、お粥(かゆ)をスプーンですくって口に運んだが、口に含んだまま、すぐに椅子から立ち上がり、道に、「ブアーッ」と、吐き出し大声で何かを叫んだ。他の男達は、その様子を見て、腹を抱えて笑い出した。吐き出した男はテーブルまで戻り、お粥を皿ごと通りにぶちまけた。それを見たほかの男達も、面白がって次々とお粥を皿ごと投げ始めた。姉弟(きょうだい)はその様子を悲しそうな顔をしながらただ静かに見る他に手立てはなかった。周りの屋台の人間達も関わり合いを恐れて何も出来ない。

 男達がそのまま椅子から立ち上がり、去ろうとした時、先ほどから忌々(いまいま)しそうにこの様子を見ていたカーリーヘアーの白人の女が、男達に何か言った。赤毛男が、ギラついた目で女を見返し、女の食べているお粥に、「ペッ」と、唾(つば)を吐き、再びヘラヘラと下卑(げび)た笑いを浮かべた。女は立ち上がってその唾を吐いた赤毛男の頬を平手打ちした。その様子を見ていた男達は「ヒャッ、ヒャッ」と笑い始めたが、殴られた赤毛男は、女の腕を掴(つか)み、ねじり上げて道に突き飛ばした。倒れた女を他の男達は卑猥(ひわい)な笑みを浮かべながら、女の頬を2、3度殴って抱え上げ、そのまま連れ去ろうとしている。



 玉木は、
 「ひどい事しよるなぁ、あいつら」そう言って郷戸の方を向いた。
 「あきまへんで、関わり合いになっ、・・・あ、郷戸はん・・・」
 そこまで玉木が言った時には、郷戸は仕込み杖を持ったまま、窓から飛び出し、トラックの屋根の上に、バーンッ、と、降り立っていた。
 「あー、もう、あかんちゅうたやろが・・・ほんまに・・・」玉木の言葉の最後は消えていた。

 男達は、女を抱えたまま郷戸を見上げた。郷戸はトラックの屋根から降り立ち、女を指差し、そのまま、指を下に向け、解放するように示した。男達はお互いの顔を見合わせ、
 「ハッ、ハッ、ハッ、ハッー」と大声で体を揺すって笑い始め、赤毛男は中指を郷戸の方に向けて上へ突きたて、歯茎(はぐき)を剥(む)き出しにして、まるでネズミを見るような目つきをして何やら言った。

 赤毛男のランニングシャツからはモジャモジャの胸毛がはみ出し、その毛は丸太のような腕にもビッシリと生えている。金髪の坊主頭の男は新しいゲームでも見つけたかのように、女を突き飛ばし、木の椅子を振りかぶった。赤毛男は、ズボンからバタフライナイフを取り出し、カシャカシャ、とナイフを開いたり、閉じたりとバタフライアクションを始めた。郷戸は、背中に隠れた女に、離れて見守っている姉弟(きょうだい)のところへ行くように手で示した。野良犬はテーブルの下でこぼれたお粥を食べている。



 男達は、これが勝ち目のない喧嘩だということに気が付いていない。今まで、アジア人と喧嘩をして負けたことなどないのだ。
 赤毛男は金髪の大男に目配せをして、ニヤニヤと笑いながら郷戸に近付いた時、郷戸は足元で、こぼれたお粥を食べている野良犬の尻尾を踏んだ。

 犬が「ギャンッ!!」と一声鳴いて飛び上がるのと、赤毛男が一歩足を踏み出してナイフを突き出すのが同時だった。赤毛男は、一筋の光が一瞬目の前を走ったように感じたが、鼻の先を切られたのにはまだ気が付いていない。金髪男は木の椅子を振り下ろそうとしたが、握っている椅子の足から上が男の頭の上に落ちてきた。その時、赤毛男の鼻の先から、「ボタ、ボタ、ボターッ」と血が垂れてきた。
 それでも、男達には何が起こったのか分からない。郷戸は、男が足を踏み出そうとした時、仕込み杖から再び刃を一閃させ、赤毛男の履いているゴム草履の鼻緒を切った。赤毛男は、踏ん張りが利かなくなって後へ大きく転んだ。



 ようやく、何が身に起こったのかを理解した赤毛男と金髪男は驚愕(きょうがく)の表情を浮かべたまま、他の男達と走り去った。

 パチパチパチッ、と周りの屋台から拍手がした。姉弟(きょうだい)も、何かを男達の背中に言うと周りの屋台からも笑い声が聞こえた。金髪女は、笑みを浮かべて郷戸に、「サンキュー」を連発している。
 
 「無茶したらあかんがな、郷戸はん」玉木はそう言いながらも顔は笑っていた。



 「それより、あの警察の兄ちゃんやがな。こないな時にこそ役に立たなあかんのに」ブツブツ言いながら部屋から出て、振り返り、
 「ほな、郷戸はんはゆっくり休みなはれ。」
 「あんたは?」
 「ちょっと、あの警察の兄ちゃんに何ぼか渡して、あいつらが仕返しに来ように頼んで来まっさ」
 「タイ語がしゃべれるのか?」
 「しゃべれへんけど、こないなこと、ようあることやさかいに、あの警察の兄ちゃんも心得てまっさ。それと、ワテは今晩、トラックの番をせなあかんさかいに、トラックで寝まっさ。ところで、どや、その仕込みの切れ味は?」そう言って、ニコッ、と笑った。
 
 翌朝、トラックに郷戸と玉木は乗り込み、玉木の雇ったドライバーが運転してタイ北部の都市、チェンマイに向かった。
 「あんたの奥さん達は?」
 「後ろの荷台の荷物の間に転がってまんがな」
 
 トラックがチェンマイに着いたのは12時間後であった。

Twitterまとめ投稿 2011/02/18 [ミステリー小説]


第8話 このはなさくやひめ 2005年(平成17年)9月  広島・宮島 [ミステリー小説]

 2005年(平成17年)9月  広島・宮島 

 高見刑事は宮島観光推進協会の事務所のドアのガラス越しに神田龍一(かみたりゅういち)の姿を確認し、「やあ、ようやく涼しくなってきましたね」そう言いながらドアを開けて入ってきた。
 「昨夜はお疲れ様でした。鉄さんの料理もなかなかだったでしょ」高見刑事は、椅子に腰掛けながら言った。
 「そうですね。おいしかったですよ。それにしても、あんな繋(つな)がりがあったとはね。驚きましたよ」神田は自分の事務椅子を、クルッ、と回転させて高見刑事の方を向いた。
 「本当ですね。私もビックリしましたよ」そう言っていつものように白髪頭(しらがあたま)に手をやった。

 「ところで、八頭神社(はっとうじんじゃ)の宮司さんはまだ?」高見刑事は腕時計を見た。
 「まだですね。もうそろそろだと思いますが」
そう言った時、「コツコツ」とノックがあり、一人の女性が入って来た。

 「いらっしゃいませ」部屋にいた渡辺が椅子から立ち上がり女性に聞いた。
 「何かご用でしょうか?」
 女性は、それには答えず、渡辺にお辞儀し、神田(かみた)のほうを見て、
 「久しぶりね。神田君」そう言った。
 「え?」
 「私よ、木野花よ。木野花咲姫(きのはなさき)よ」と微笑み、ニコッ、と顔を横に傾けた。


 「あー、咲姫(さき)ちゃん」神田は椅子から立ち上がった。
 「憶(おぼ)えててくれた?」木野花咲姫(きのはなさき)は、再び、ニコッ、と微笑んだ。
 「いやー、久しぶりだね」思わず声が大きくなった。咲姫は学生時代とあまり変わっていない。ヘアースタイルも髪を束ねたポニーテールのままだ。
 「ほんとね。卒業以来だものね」
 「でも、俺がここにいるって何故分かったんだ?」
 「あら、私にご用でしょ?」咲姫(さき)は、いたずらっぽく言った。
 「え?じゃあ、八頭神社(はっとうじんじゃ)の宮司(ぐうじ)さんっていうのは・・・」神田は口をあけたままで言葉を止めた。
 「私よ」

 「これはこれは、わざわざ申し訳ございません。私は、高見と申します」高見刑事は椅子から立ち上がり身分証を出し、開いて木野花に見せた。
 「初めまして木野花咲姫(このはなさくひめ)と申します」咲姫(さき)は、高見刑事に丁寧(ていねい)にお辞儀をした。

 「このはなさくひめ?きのはなさき、じゃないの?」
 「このはなさくひめ、って読むのよ。学生時代は、面倒だから、きのはなさき、で通して来たのよ」
 「まあ、かけて」神田は木野花(このはな)が座りやすいように椅子を動かした。



 「しかし驚いたなぁ。咲姫(さき)ちゃんが宮司だなんて」コーヒーを淹れるためにサーバーの方へ向かっていたが、
 「あ、失礼、木野花(このはな)さんが・・・」と振り返って言った。
 「咲姫(さき)でいいわよ」そう言って、椅子に座り、ハンドバッグを膝に置いた。
 「私の家は代々富士吉田の八頭神社(はっとうじんじゃ)の宮司をしているの」
 「へー、しかし、そんなことは全く言わなかったじゃないか」コーヒーカップを咲姫と高見刑事の前に置きながら言った。

 「いやだったのよ、そんな家が。だから、叔父(おじ)のいる広島の大学に入ったのよ。いただきます」と、軽く頭を下げながら、コーヒーカップを手に取った。
 「でも結局は、宮司になって家を継ぐ格好になってしまったわ。神田(かみた)君とも、あの暴力団の事件がなかったら、お互い口を利くこともなかったでしょうね」そう言うと神田の顔を見てニコリと微笑んだ。
 「笑顔も昔のままだ」神田は思った。

 「おや、こちらの方も、あの一件に」高見刑事は、咲姫の顔を驚いたように見た。
 「そりゃあ、大活躍でしたよ」神田は大げさに笑いながら高見刑事に言った。
 「あらいやだ。あのお陰で一年間大会には出場できなかったのよ」
 「今でもこれは?」神田は右手の人差し指を立てて前に振った。
 「ええ、地元の小学校で子供達に教えているわ。大会には審判としても引っ張りだこよ」冗談ぽくそう言って笑った。



 「失礼ですが、木野花(このはな)さんは、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)と何か関わりが?」高見刑事は聞きにくそうに尋ねた。
 「分かりません。ただ、私の家系は、生まれる子供は何故か女の子ばかりなんです。そして、代々、生まれた子の名前には咲姫(さききひめ)と名付けることになっているんです」

 「へー」高見刑事は神田(かみた)の顔を見た。
 神田(かみた)も「へー」という表情を浮かべ高見刑事の顔を見た。
 「私の娘も咲姫(さくひめ)です。娘も、それが嫌みたいですね」コーヒーカップを両手で持ってニコニコしながら続けた。神田は咲姫(さき)が結婚していることを知り少しガッカリした。

 「木野花咲姫(このはなさくひめ)なんて変でしょ。だから、娘も、きのはなさき で通しているんです。でも、そのうち分かってくれると思います」
 「不思議な家系もあるもんですね。私のところなんか曽祖父(ひいじい)さんの時代から職業軍人でね、親父(おやじ)は警察官。そして、私も、おまわりさん」高見刑事は、はははっ、と笑いながら頭に手をやった。



 「ところで、早速で申し訳ありませんが、今回、わざわざお越しいただきましたのは、木野花(このはな)さんの、えーと、だから、お母様になられるんでしょうか?」
 「祖母ですわ。あの鉄の箱の中の巻物を解読したのは」高見刑事のほうをしっかりと見て答えた。学生時代と変わらずはっきりした性格のままだ。

 「巻物?」
 「はい。巻物の体裁(ていさい)になっていたようです。でも、表面は熱で灰になっていたようですから解読出来ましたのは一部分にしかすぎません」
 「巻物の表面というと前半部分ということ?」神田(かみた)は、頭の中で巻物の姿を想像してみた。
 「そう、だから、解読できたのは、後半部分だけということになるわね」
 「その解読したものは?」高見刑事はやや興奮して尋ねた。いよいよ、あの鉄の棒の謎が解明される時が来たと思った。

 「解読したものはないんです」
 「え?」高見刑事は、ガッカリした表情を浮かべた。
 「富士文献(ふじぶんけん)にしても、私達の家系は解読のお手伝いをしただけで、文字としては残していないんです」

 「そうなんですか」高見刑事は、背もたれに背中を預けた。
 「私達の家系で解読した文章の内容は全て、口承口伝(こうしょうくでん)なのよ」
 「ということは?」神田は体を前に傾けた。
 「私の頭の中にしか残っていないのよ」



「でも、そのことは、何人(なんぴと)にも話してはいけないのです。それが、八頭神社(はっとうじんじゃ)に仕(つか)えてきた木野花家(このはなけ)の家訓ですのよ」咲姫(さき)はきりっ、とした表情をくずさずに神田と高見刑事を見つめた。

 「これは、木野花家に限ったことではございませんわ。神職についている者は誰でも、その仕えている神様に対しては慎(つつしみ)みを持って接しなければいけませんの」姿勢を正したままで続けた。
 「それに、私に伝えられているのはほんの数行のことですからお役には立てないと思います」と、申し訳なさそうな顔でふたりを見た。

 「頼むよ。なにしろ、何がどうなっているのか皆目(かいもく)分からないんだ」神田は眉(まゆ)を寄せてテーブルに手を乗せた。
 「お願いします」高見刑事もテーブルに両手をつけて頭を下げた。



これまでの出来事を、神田(かみた)は、咲姫(さき)に要領よくまとめて話した。事件は咲姫(さき)の協力なくしては解決出来そうもないのだ。

 鉄の棒が宮島の弥山(みせん)と富士山の山頂にあったと推測出来ること、その2本は、台風と大雨で姿を現し、今は、その2本とも誰かの手にあること、その鉄の棒には弓矢の「矢尻」が封印されていたこと、そして、その鉄の棒を中国も手に入れようとしていること、など。

 「それは今月(2005年9月)の最初の台風(台風14号)の時ね」咲姫は目を閉じて鼻から大きく息を吸い、そして、ゆっくりと長く口から吐いた。
 「ああ、そうだよ」
 「それだったのね」
 「何が?」神田は、何のことだ、と思いながら咲姫(さき)を見つめた。
 「見えたのよ」
 「だから、何が見えたんだい?」
 「一瞬だけど、天狗が口に何かをくわえて飛ぶのが見えたのよ」

 「天狗?」何を言っているんだろう、ふたりともそう思った。そして、同時に
 「言ってもいないのに、あの大男が鉄の棒をくわえて、富士山頂から飛び降りたことが、どうして分かったんだろう」神田と高見刑事はお互いの目を合わせた。



 「私の家系はね、代々、感が鋭いのよ。特に雨の日や台風の日には鋭くなるの。今回の台風は、雨台風で、あちらこちらで大雨を降らせたでしょ」
 「そうです。日本全国といっても過言ではないでしょう。それほどひどかったですからね。今でも復旧作業は全国で続いていますからね」高見刑事は何度かうなづきながらそれに応えた。

  「わたしは、9月4日には、今年から静岡県で毎年定期開催されることになった全日本女子剣道選手権大会の審判を務める予定だったんです。でも9月に入ってからの大雨で猛烈な頭痛が襲ってきて、それも出来なかったんです」 
 「頭痛が5日くらい続いたかしら。最近、ようやく落ち着いてきたけど」咲姫は再び目を閉じた。

 「そんな時には、必ず私に関わりのある夢を見るのよ」薄く目を開け、
 「そして、その時に・・・さっきは、天狗、と言ったけど、ハッキリとは分からないわ。若いときならもっとハッキリ見えたと思うけど、だんだんと感も鈍くなってきたんでしょうね」そしてまた目を閉じ、
 「それで、頭痛で精神が虚(うつ)ろになったときに、どこか神聖な山から、その、天狗のようなものが口に何かをくわえて飛ぶのが見えたのよ」



 「あの、それは、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)が水の神様だということに何か関係が・・・」高見刑事は小さな声で聞いた。
 「分かりません。そうかもしれませんし、単なる偶然かもしれません」
 「うーん」と、神田(かみた)と高見刑事は同時に目を閉じ、腕を組んだ。
 事務所内にいた者も微動だにしないで咲姫の話を聞いている。

 「実はね、咲姫(さき)ちゃん。今、咲姫ちゃんが言った通りなんだよ」神田(かみた)はゆっくりそう言うと、
 「大きな男がパラグライダーで富士山の山頂から飛び降りたんだよ。口に鉄の棒をくわえてね。たぶん、ここ、宮島の頂上、弥山(みせん)からもそうだと思う」と、自分に言い聞かせるようにゆっくりと言った。
 咲姫(さき)は静かにうなずいた。

 「あの鉄の棒の中には、矢尻が封印されていたのは、分かっているんです」高見刑事はここまで言って、空になったコーヒーカップを持って立ち上がった。
 「それが、何故、富士山と、宮島にあったのか、あった、と言うか、隠されていた、と言った方がいいのかも知れませんが」そう言いながらコーヒーを淹(い)れた。
 「木野花(このはな)さんもいかがですか?」そう言って咲姫の空になったカップを指さした。
 「ありがとうございます。いただきます」そう言ってカップを高見刑事に渡した。



 高見刑事から受け取ったコーヒーカップを両手で包むように持って、くるくる廻るコーヒーをしばらくの間見つめていたが、
 「これは、どうやら大変なことが絡(から)んでいるような気がしてきたわ」咲姫(さき)はそう言うと、背筋を伸ばし、コーヒーカップをテーブルに置いた。そして、両手を膝の上のハンドバッグの上で揃えて目を閉じた。

 神田(かみた)と高見刑事も、咲姫(さき)の透き通るような顔色を見て、ただならぬ気配を感じ取り、動きを止めた。それと同時に宮島観光推進協会の事務所の中は真空状態になったかのように無音になった。

 1分くらい過ぎた頃、神田は、
 「咲姫ちゃん・・・」と、静かに声をかけた。咲姫はゆっくりと目を開け、
 「時の流れに逆らうことは出来ないけど、お話しすることが、多くの人の命を救うことになるかも知れません」
 「人の命を?」高見刑事は眉間(みけん)に皺(しわ)を寄せた。
 「今がお話すべき時なのかも知れません」咲姫は小さな声で言った。
 「ありがとうございます。で・・・」高見刑事はポケットから手帳とボールペンを出し、
 「えー、何からお尋ねしていいか・・・」と、白髪頭(しらがあたま)をボールペンで掻(か)いた。
 「まず、あの巻物を書いたのは誰なんだい?」神田が、じゃあ、という感じで咲姫(さき)に尋ねた。
 「それは、わからないわ。でも書かせた人は分かっているわ」咲姫は神田の目をしっかりと見た。
 「誰?」
 「頼朝よ」
 「頼朝って、あの源頼朝(みなもとのよりとも)?」神田は聞き返した。思いもかけない名前が咲姫の口から出た。
 「源頼朝って、源頼朝!?」高見刑事も、まさかと思いつつも、
 「で、あの巻物には何と書いてあったのですか?」先を急いだ。
 「私が母から口承されたのは」そう言うと、再び目を閉じ、何百年も前から封印されていた言葉を諳(そら)んじ始めた
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第9話 獅子岩の岩にペトログラフ(古代文字)で太陽神を崇拝する文字が刻まれている [ミステリー小説]

 頼朝

 「頼朝様の命を受け封じ込めるは国家安泰(こっかあんたい)の基(はじめ)なりと見備(みそな)はし坐(ま)して今(いま)も往先(ゆくさき)も子孫(うみのこ)の八十続(やそつづき)五十(い)樫八桑枝(かしやくはえ)の如(ごと)く家門(いえかど)高(たか)く広(ひろ)く立栄(たちさか)へしめ給(たま)へと御願奉(おんねがいたてまつ)る」
 咲姫(さき)は、母から口伝(くでん)された言葉の封印をとき解(ほど)き、ゆっくりと、しかし、よどみなく声にして発した。

 「これだけなんです」咲姫(さき)は薄く目を開き、体力を使い果たしたかのような弱々しい声で言った。
 高見刑事はメモを取ることも出来ずに聞いていたが、
 「たった?いや、失礼・・・」そう言うと、うつむき加減で白髪頭(しらがあたま)に手をやり、
 「で、その意味は?」と、咲姫の顔を見た。

 「頼朝様の命令で封じ込めるのは国の安泰とお思いになられて、今後とも子孫の繁栄をよろしくお願いします、ってことでしょうね」神田は憔悴(しょうすい)した咲姫の顔を見た。
 「そうですわ。頼朝は、国と子孫、つまり、日本の今後のためにと思って、あの鉄の棒を富士山頂に封じ込めた、つまり封印したのだと思いますわ」
 「富士山頂とここ宮島の弥山(みせん)山頂にね」神田は付け加えた。



「でも、どうして宮島と富士山なんだろうか?確かに宮島と富士山は、平氏と源氏を象徴するものではあるし、朱(あけ)の大鳥居と雪を被った富士山から、頼朝は白い雪が紅葉を埋めてゆくことを連想しても不思議はないけど」神田(かみた)は腕を組んで、以前、高見刑事と疑問に思ったことを口にした。

 「大事なことは、1000年近く前の人間の考え方は、今の時代の人間とは大きく違うってことよ」咲姫(さき)は薄っすらと額(ひたい)に浮かんだ汗をピンクのハンカチで押さえるようにして拭(ぬぐ)った。
 「それに、1000年以上前では、人間の種類も違っていたでしょうね」そう言って高見刑事を見た。

 「種類だなんて」高見刑事は少し大げさに背を伸ばしてみせた。
 「民族が違う、と言ってもいいかもしれませんわ」
 「民族がですか?」高見刑事は再び背を丸め、咲姫の話に聞き入った。
 「そうです。今でも日本の西と東に住んでいた日本人が違う民族だったという痕跡(こんせき)はたくさん残っていますでしょ」
 「そう?・・・ですね」高見刑事はやや口をとがらせた。



 「川の名前の分布を見ると、日本の西と東できれいに分かれるのはご存知でしょ?」咲姫は高見刑事を見た。
 「え?、まあ・・・」高見刑事はゆっくりと頷(うなず)いた。

 「それは、川の流れの形状や、水の量などによって名前が決まるのじゃなく、その地域に暮らしていた人たちが違っていたからでしょうね」コーヒーカップを手に取り、
 「西日本では谷がつき、東日本ではそれが沢になっていますよね」両手で包むように持った。

 「たとえば、宮島には紅葉谷(もみじだに)がありますけど、紅葉沢(もみじさわ)じゃないでしょ。紅葉谷が東日本あれば、丹沢(たんざわ)の悪沢(あくさわ)や日本アルプスの涸沢(かれさわ)のように紅葉沢(もみじさわ)になるでしょうね」コーヒーを一口飲み、
 「味覚もそうですわ。カップうどんやカップラーメンもメーカーは出荷地域によって味を変えてるのもご存知でしょ?」再び高見刑事を見た。
 「え?、まあ・・・」高見刑事は膝の上の手帳に目を落とした。

 「それに、顔つきも、今でこそ、混血が進んでいますし、移動も頻繁になっていますから東西で違うってことはありませんけど、当時は一目見て分かった と思いますわ」
 「そ?、そうでしょうね・・・」高見刑事は顔を伏せたまま、ボールペンで白髪頭を掻いた。
 「典型的なのは、西郷隆盛タイプ、高杉晋作や吉田松陰タイプ、そして、アイヌタイプの顔を思い浮かべれば分かると思いますわ」
 「遺伝子や肝炎ウィルスの分析でもこうしたことは確認されていますでしょ?」
 「そ?、そうですよね・・・」そうなのか、という顔で神田を、チラッ、と見た。
 「それに、その西と東を分けて日本を統治すると言う考え方は今でも皇室の行事には伝統として受け継がれていますのよ」
 「皇室へ?」高見刑事は、そんなことがあるのだろうかと言う顔で咲姫(さき)を見た。

 「そうです。大嘗祭(だいじょうさい)というのをご存知でしょ?」
 「ああ、確か天皇の即位の時の儀式ですね」高見刑事は、「これは聞いたことはあるな」と思った。
 「はい。天皇様が一世に一度だけ即位された後に行われる国家のお祭りです」そう言って、思い出すようにゆっくりと説明し始めた。
 「9000平米という広大な敷地にいろいろな建物を作っていくわけですけど、その中心になる建物は東日本を意味する悠基殿(ゆきでん)と西日本を意味する主基殿(すきでん)なんです」咲姫の透き通るような顔がやや赤みを帯びてきた。

 「そして、一連の儀式をこの悠基殿(ゆきでん)で行ない、全く同じことを主基殿(すきでん)でもおこなうのです」宮島観光推進協会の渡辺も真剣に話を聞いている。
 「こうした儀式を終えて即位として認められ、正式な天皇様になられるのです」
 「フーム」咲姫のこれまでの話を聞き、神田には、頼朝が富士山と宮島に鉄の棒を「祀(まつ)り、封印した」と言うのも事実だろうと思えてきた。



 「専門の立場から見ましても西と東の民族の違い、それははっきりと分かりますわ」咲姫(さき)は高見刑事と神田(かみた)を交互に見つめた。
 「専門?」神田(かみた)はコーヒーカップから口を離した。
 「私は宮司ですけど、実は、歯科医でもあるの」
 「へー」予想もしていない言葉だった。

 「大学を卒業して、商社に勤めたんだけど、ほら、当時、ロッキード事件なんかで総合商社への風当たりが強くなって、私もちょっと仕事に疑問を感じ始めていた頃だったから大学に入りなおしたの」
 「ほー、そりゃあ、たいしたもんですね」高見刑事の声がやや大きくなった。
 「そんなことはありませんけど」コーヒーカップをテーブルの上に置き、
 「歯科医の私が見ると、人相で歯の形状に違いがあるのがはっきりと分かるのよ」そう言うと目を閉じしばらくの沈黙の後、額に手をやり、
 「少し頭痛がしてきたわ。これくらいでよろしいでしょうか?」と、高見刑事を見た。

 「お体の具合でも?」
 「ええ、少し疲れたみたいです」
 「今日は?」神田は心配そうに咲姫に尋ねた。
 「今夜はそこの聚景荘(じゅけいそう)を予約してあるの。荷物も、もう預けてるのよ」そう言いながら立ち上がった。



 「今夜はゆっくり休むといいよ。聚景荘(じゅけいそう)のレストランから見るライトアップされた鳥居はとっても綺麗だよ」
 「木野花(このはな)さんには敵(かな)いませんが・・・」高見刑事は手帳を背広のうちポケットに入れながら言い、白髪頭に手をやった。

 「まぁ、ありがとうございます。では、私へのご用件はこれで?」咲姫(さき)は、笑いながらそう言って立ち上がった。
 「はい。お疲れのところ、大変ありがとうございました。非常に参考になりました」高見刑事も立ち上がり、
 「文書の内容はお話していただきましたし、警察としましては、もうお引止めする理由はございません。今夜はごゆっくりとお休み下さい。また今後もご協力をお願いすることもあるかと思いますが、その時にはよろしくお願いします」そう言って頭を下げた。

 「いつでもご連絡下さい。じゃあ神田君」咲姫は神田のほうを向いて、
 「私、明日はお昼から岩国(いわくに)の錦帯橋(きんたいきょう)に行って、広島に帰り、市内で一泊して、明後日、平和公園を散策してそのまま失礼します」と、言いながらドアの方へ向かった。
 「おひとりで?」高見刑事は2、3歩ドアの方へ歩き、咲姫の後姿に声をかけた。
 「いえ。連れがいます」咲姫はドアのところで振り返り言った。
 高見刑事は、チラッと、神田を見やり、
 「ご主人?」と尋ねた。
 「いえ、私がアメリカで歯科医の研修していた時に知り合った友人と一緒です」
 「ほー、それはご友人もお喜びになられるでしょう。ごゆっくりとお楽しみ下さい」高見刑事は改めて深く頭を下げた。



 翌朝、神田(かみた)はいつものように博打尾(ばくちお)尾根から獅子岩までゆっくりと走っていた。

 咲姫(さき)から聞いた文書の内容は不可思議なものだった。源頼朝(みなもとのよりとも)が日本の安泰を願ってあの鉄の棒を富士山と宮島に隠した。それだけなら、いくらそれが不思議でも、それは単に昔の人間の宗教的な儀式だ、で終わりだ。
 しかし、それを奪い取ったあの大男は何者なんだ?また、なぜ、中国はそれを奪おうとしたのか?咲姫(さき)の言った「多くの人の命が救える」とはどういうことなんだ?

 獅子岩までの登山道は、途中、ロープウェイの中継地点の榧谷(かやだに)駅の建物の下をくぐる。トンネルのようになっているが、永年積み重なった砂で埋まり、今では、うんと背を低くしないと通り抜け出来ない。
 「言われてみると、ここも榧谷(かやだに)で榧沢(かやさわ)じゃないな」と思いながら腰を低くして建物の下に入った。くぐりながら、
 「歴史の事実もこうして時が埋めていってしまうんだろうな」と、ふと思った。



ロープウェイの榧谷(かやだに)駅を過ぎると少しの間急登になるが、すぐに見晴らしの良い大岩に着く。ここは神田(かみた)のお気に入りの場所だ。左手には広島市が見え、江田島をはじめとして、瀬戸内に浮かぶ島々が見渡せる。

ここを過ぎるとすぐにロープウェイの終点駅のある獅子岩(ししいわ)に着く。ロープウェイの駅から出ると野生の猿と鹿が出迎えてくれる。こんなところは宮島以外にはないだろうと思っている。そして、宮島の最東端のピークからは、先ほどの大岩以上の絶景が迎えてくれるのだ。

 「ん!?あれは・・・?」神田は汗を拭く手を止めた。
 「咲姫(さき)ちゃん?」
 「あら、神田君。どうしたの、こんなに朝早く」
 「それはこっちの言うセリフだよ」神田は咲姫のいる岩場へ続く石段を駆け上がった。
 「そうね」瀬戸内から吹き上げる風で髪がそよいでいる。

 「朝、とっても気持ちがいいから、久しぶりに紅葉谷(もみじだに)から登ってきたの」
 「へー、元気なもんだな」足元を見るとジョギングシューズだ。
 「当たり前よ。鍛え方が違うわよ」そう言って、足を「ポン」と叩いた。
 「お友達は?」神田は周りを見渡した。
 「そこにいるわ。」そう言って名前を呼んだ。

 「え?キヨシ?男?」神田にはキヨシと聞こえた。



 「ハロー、こんにちは」そう言いながら一段低くなっている展望台からカールした栗色の髪の女性が駆け上がってきた。胸元のネックレスが揺れて光った。女性だった。神田は、何だかホッとした。

 「神田(かみた)君、紹介するわ。こちら、長谷川キャシーさん」咲姫(さき)は、その女性の肩を抱くように左手を大きく広げて、その女性を招いた。そして、
 「キャシー、こちらは学生時代の同級生の神田(かみた)さん」と、右手を神田のほうへ向けた。
 「ハロー、始めましてキャシー長谷川です」そう言いながら、女性は一歩進み出て、右手を差し出した。
 「始めまして、神田です」キヨシじゃなくキャシーって呼んだのか。
 「え?何か言った?」
 「い、いや別に」背は咲姫と同じくらいだろうか。年頃は神田達と同年代だろう。

 「キャシーはお父様が日本の方で、お母様がアメリカの方なの」咲姫(さき)はふたりを交互に見ながら言った。
 「ああ、そうですか。それで日本語がお上手なんですね」
 「アリガトウゴザイマス。でも、少しだけ発音、変でしょ?」キャシーは大げさに肩をすくめた。
 「とんでもありませんよ。私は英語を何年勉強してもダメですよ」首筋の汗を拭(ぬぐ)いながら言った。

 「彼女とはシアトルのデンタルクリニックで研修中に知り合ったの」そう言う咲姫をキャシーはニコニコと見ている。
 「アメリカ滞在中に日系の子供達に剣道を教えていたのよ。彼女、剣道に関心があったみたいで、教えて欲しいっていうので、子供達と一緒に教えていたの」
 「へー、そうなんですか」



 「キャシー、神田さんはね日本拳法のマスターなのよ」咲姫(さき)は、いくぶん自慢げにキャシーに言った。
 「オー、弁護士さんですか?」
 「ふふふ、違うわよ。憲法じゃなく拳法、これよ」そう言って右手で拳(こぶし)を作り、「エイッ」という感じで前へ突き出した。

 「オォ、分かりました。空手ですね。私はケンポーにも関心があります」キャシーも咲姫の真似をして拳を作って前へ突き出した。
 「今度教えてください」突き出した右手を腰に構えながら言った。
 「まあ、キャシー、本気なの?」咲姫(さき)は、やや、身をのけぞらせてキャシーの顔を見た。
 「本気です。わたしは日本の武道には興味あります。特に拳法と剣道には」そう言いながら首から下げている揺れるロケットペンダントを握った。
 咲姫は、ニコッ、と笑って、
 「じゃあ、今度帰ったら神田さんに教えてもらいなさいよ」と、キャシーの右肩を、ポンと小さく叩いた。


 「帰ったらって、どこかお出かけですか?」神田はキャシーと咲姫の顔を見た。
 「キャシーは外科医なの。一週間後には海外へ一年の予定でボランティア活動に出かけるのよ。その途中、日本に寄ってくれたの」
 「はい。そうです。海外ではまだまだドクター、不足しています。今回、2度目です」そう言いながら手にしたペットボトルのミネラルウォーターを一口飲んだ。

 「そうですか。それは素晴らしいことをしていらっしゃいますね」そう言って腕時計を見て、
 「おっと、いけない、時間だ。遅刻してしまう」神田はそう言いながら、タオルを首筋に巻きなおした。
 「神田君、今日お昼ごはん一緒にどう?」
 「ああ、いいね。じゃ、携帯に電話するから。じゃあ、キャシーさん、後でまた」そう言って、右手を軽く上げ、紅葉谷(もみじだに)へ向かった。



 神田(かみた)は、昼時間に、咲姫(さき)とキャシーに、「清盛うどん」で落ち合った。
 「ここのうどんはね、手打ちで、カルシウムいっぱいのうどんなんだよ。おいしいよ」そう言うと、店主に冷やしうどんを三人分注文した。

 「神田君、私達、あれから弥山(みせん)の頂上まで登ったんだけど、キャシーもとっても気に入って、ビューティフルの連発だったわ」と、キャシーの方を向いた。
  「はい。とってもきれいでした。写真たくさん撮りました」そう言って、デジカメの映像を神田に見せた。

 「私は、あの大岩のそばに立つと、いつも霊気を感じるのよ」咲姫(さき)ならそうだろうと神田は思った。
 「この宮島は昔の修験者(しゅげんしゃ)にとっては修行の島だったでしょうし、何千年も前の人たちにとっても何か神聖な島という認識はあったでしょうね。弥山(みせん)の頂上に立つと、それがよーく理解できるわ」咲姫(さき)は言葉に力を込めて言った。
 「そうだね。今は厳島神社が有名になっているから市杵島姫(いちきしまひめ)に代表される神の島のように思っている人が多いけど、仏教や、修験道などの歴史も深いからね」
 「市杵島姫は弁財天と同一視されているし、弁財天はもともとヒンズーの神様サラスバティ(サラスワティ)ですものね」



「獅子岩の岩にペトログラフ(古代文字)で太陽神を崇拝する文字が刻まれているということは、何千年も前の人たちも、この島を神が宿る島として認識していた証拠だと思うわ」キャシーはふたりの会話を興味深そうに聞いている。
 「ペトログラフの刻まれている岩がよく分かったね。あれはちょっと分かりにくいんだけど」神田は驚いて咲姫を見た。
 「私には、その岩だけがライトアップされたように見えたの」
 「そうかぁ」神田にはもう、咲姫の言う事には何の疑いも抱けなかった。

 「おまたせいしました」気の弱そうな店主がうどんを運んできた。
 「わぉー、おいしそうですね」キャシーはもう割り箸に手をかけている。

 「そういう意味で、この宮島は学問上でも貴重な島だと思うよ。ペトログラフの古代信仰からヒンズー教、山岳信仰、仏教、神道。神社の配置からも明らかに北斗信仰、妙見信仰も取り入れられていることが分かるしね」神田は、「ありがとう」と言ったふうに店主に手を上げた。
 「へー、そうなの」咲姫も割り箸を割った。
 「ああ、弥山(みせん)頂上と厳島神社の大鳥居をつなぐ線は南北方向なんだよ」
 「へー。そういえば、弥山本堂には毘沙門天が祀(まつ)られていたわね」
 「ああ、毘沙門天は北の守り神だからね」



「それでね、弥山(みせん)頂上と大鳥居の先に宮島を遥拝(ようはい)するために建立されたと思われる地御前神社(じごぜんじんじゃ)があるんだよ。」
 「へー」
 「しかもその線を伸ばしていくと極楽寺山(ごくらくじやま)に当るんだ」
 「おそらく、極楽寺山も文字に残される以前から信仰の対象になっていたんだろうね」そう言うと、うどんを「ツルツルッ」と口に運んだ。
 「そうね」咲姫はそう言って、
 「そもそも、今回の台風でも分かるように、一年に何回かは、大きな台風が来て厳島神社は被害を受けるんですものね。何年に一回かは必ず大きな被害があるし、それが分かっていながら、ここにこんな立派な神殿を築く必要があったのかを考えると、これは曼陀羅(まんだら)の思想よね」 
 「対岸から臨むと、島全体が曼陀羅絵になっているしね」



 「案外そんなところに、伊勢神宮が20年に一度建て替えられる式年遷宮や、出雲大社の巨大神殿と通じる考え方があるのかもしれないね」
 「私もそう思うわ。出雲大社も高さが48mもあって、何度も倒壊して、そのたびに建て替えられたらしいものね」咲姫(さき)も、おいしそうにうどんをすすった。

 「以前は、当時の建築技術では高さ48mなんてとても無理だから、単なる言い伝えだと思われてただろ」そう言いながら、キャシーの方を向いて、
 「どうですか?ここのうどんは」と聞いた。
 「おいしいです。大好きです」キャシーはもう半分くらい食べている。
 「ところが実際に巨大柱が発見されたんだから、世間が、アッと言ったのも無理はないよ」
 「たしか平成11年よね」そう言う咲姫に、そうそう、と言う感じで神田は肯(うなず)いた。

 「あっ、そうだ。これ見てくれるかな」神田はそう言って、紙袋から一枚の写真を取り出した。富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)の職員が富士山頂上奥宮(おくみや)で撮った鉄の棒の写真だ。
 咲姫(さき)なら何か分かるかもしれないと思って、今朝、富士山本宮浅間大社の宮司に頼んでメールで送ってもらったものだ。



 「あら、これが例の鉄の棒?」そう言って神田の手にある写真を覗きこんだ。
 咲姫の顔が急に近づき、神田は思わず顔を動かした。
 「・・・ああ、ちょっと見にくいけど、この表面に刻まれている模様のようなものは・・・何か分かるかい?」写真を咲姫の方へ少し動かした。

 「ええ、これは烏文字(からすもじ)よ」神田から写真を受け取り、それを見るとすぐに言った。キャシーも興味深げに覗いた。
 「烏文字(からすもじ)?」
 「ええ、それもかなり古いものね。今のはもっと分かり易いわ」写真をキャシーにも見えるように動かした。

 「今は、熊野三山(くまのさんざん)のお札(ふだ)に使われているものだけど、もともとは、大事な誓いの言葉を文字にするときに使われたものよ」顔を上げて神田を見た。
 「で、なんて書いてあるか分かるかい?」
 「数字みたいね」咲姫はジッと見ていたが、
 「これは・・・」咲姫(さき)の顔が急に困惑の表情に変わった。

 「何?どうしたんだい?」そう言いながら、写真を咲姫(さき)の手から取って改めて、そこに写っている鉄の棒を見た。
 「なんていう数字なんだい?」顔を咲姫へ向けた。キャシーも咲姫の顔を見つめている。
 「三の一」咲姫は顔を上げ、神田(かみた)の顔を見つめて、困ったように言った。
 「え!?」
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