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第2話 自衛隊東部方面総監部へ乗り込み、割腹して果てた [ミステリー小説]

1972年(昭和47年)10月 広島 

 神田龍一(かみたりゅういち)は高校を卒業し、広島市内の修道館大学(しゅうどうかんだいがく)へ進学した。その頃は、学生運動も下火になりつつあったが、それでも、神田(かみた)の通う大学は学生運動の急進派の核となっていた。

  神田(かみた)は彼らとは、一線を画し、いわゆる「ノンポリ学生」であったが、ただひとつ、高校時代から熱心に取り組んでいたのが、日本拳法だ。神田(かみた)は幼い頃から体が大きく、高校生の頃には185センチに達していた。大学に進学すると、教室よりも拳法部の道場にいる時間のほうが長く、大学の2年生になった頃には、その体を活かして繰り出す、頭部への横蹴(よこげ)りに敵(かな)う相手は西日本にはもういなかった。しかし、全国大会に出場する機会はやってこなかった。

 修道館大学は、日本拳法西日本大会で団体優勝を勝ち取り、神田(かみた)は個人優勝した。
 「よーし、次は、全国制覇だ」
 部員の気持ちも高揚し、その打ち上げを終えて、市内の繁華街を部員と歩いていた時、部員の一人の体が駐車していた車のミラーに当たった。相手が悪かった。

 その車に乗っていたのは、当時、広島市内を牛耳(ぎゅじ)っていた暴力団「大木会」の会長の息子であった。「若」と呼ばれていた仁一郎(じんいちろう)は、父親である会長から溺愛(できあい)され、当時は縄張りのひとつを与えられ、勝手し放題の、いわば、絶頂期であった。

 「おい」後部座席のドアを少し開け仁一郎は言った。
 「どういうつもりじゃ」
仁一郎(じんいちろう)は、部員を呼び止めた。
 「あっ、すみません」
 部員全員が、「まずい」と思った。
 「もうしわけありません」
 部長の山口大河(やまぐちたいが)が一歩前に出て、頭を下げた。
 しかし、それくらいで、引き下がる相手でないことは山口にも分かっていた。


 車から降りるなり、仁一郎は左頬に薄ら笑いを浮かべ、
 「指ィ、詰めーや」と言い放った。
 「郷戸(ごうど)、ドスを出せィ!!」目は山口に向けたまま、顔を後ろの用心棒たちに向けた。
 そして、仁一郎は両手をポケットに突っ込んだまま、ポケットの中の小銭を「チャラチャラ」と揺らした。

 仁一郎(じんいちろう)の後ろには、用心棒が3人立ち、そのうちの一人は、すでに、朱塗りの木刀を右手に垂らしていた。その男の額には赤いタオルが巻かれていた。郷戸(ごうど)と呼ばれたその男は、懐(ふところ)から白鞘(しらさや)のドスを出して仁一郎に渡した。通行人がいっせいに広がり、大きな輪を描いた。

 その輪の中で、山口は、再び、
 「もうしわけありませんでした」と頭を下げたまま言った。頭を下げ、仁一郎と用心棒の足元から自分との距離を測った。
 さらに、膝(ひざ)をつき、土下座をした。神田(かみた)を始め、部員全員が山口に倣(なら)って土下座をした。

 仁一郎は、山口の頭を右足で押さえつけた。押さえつけながら、
 「学生の分際でわしのシマを歩くのは十年早いんじゃい」と、さらに足に力をこめた。
 押さえつけられながら、「どうやってこの場を納めるか」を山口は考えていた。部員は12名、相手は仁一郎を含めても4名。殴り合いになれば山口ひとりでも一瞬にして3人は倒せる。ただ、赤い木刀を持った男には、部員全員でかかっても「手間取るかもしれない」と、感じた。

 神田(かみた)も、山口の半身(はんみ)後で土下座をしながら、木刀を持った男の動きだけに注意を払っていた。

 部長の山口は、
 「ここは逃げるしかないか」と、思った。
 押さえつけられたまま、後ろで土下座をしている部員に目配せをした。神田(かみた)も山口の考えが分かった。

 山口は、歩道についていた左手で仁一郎の右足を払い上げ、同時に、
 「逃げろ!!」と叫んだ。
 仁一郎は、右足を大きく空(くう)に上げ、両手をポケットに突っ込んだまま、仰向(あおむ)けにひっくり返り、背中から水溜(みずたま)りの中に倒れこみ、ポケットの小銭が車道にばらまかれた。


 山口と神田(かみた)は、土下座の姿勢から、倒れた仁一郎の横をすり抜け、姿勢を低くして野次馬たちの脇の下を通り抜けた。山口と神田の場合、土下座の姿勢から立ち上がり、体を反転させて、用心棒たちと逆方向へ走るよりも、彼らの脇を、仁一郎を楯(たて)にした形で走り抜けるほうが無難な方法であったのだ。

 他の部員たちは、用心棒たちとは距離があったので、いっせいに、逆方向へ走り、ばらばらに走り去った。

 用心棒の朱塗りの木刀は一瞬にして左手に移され、横へ払われたが、倒れた仁一郎が邪魔をして、山口の肩先をかすめただけであった。
 野次馬の脇を駆け抜けるときに、神田(かみた)と用心棒の眼が一瞬合った。

 他の二人の用心棒は仁一郎のところへ駆け寄り、「若、若ァ」と声をかけるのが最初の行動であった。
 仁一郎は、倒れたとき、頭を車のバンパーにしたたかに打ちつけ微動だにしなかった。
 用心棒は、
 「馬鹿たれーっ、見せもんじゃないどぉ!!」と、野次馬を手と足で払い散らし、仁一郎の体を抱え上げたが、仁一郎の顔から、すでに、血の気は失せようとしていた。

 用心棒は、左手に持った木刀を、横に払った形のままで、姿のない、山口と神田の逃げた先を無表情のまま追っていた。

 この夜の、学生と暴力団とのトラブルは、翌朝には誰も憶えていないほどの、ささいなことであったが、5日後には、この夜のことが引き金となり、全国的に三面記事のトップを飾るニュースとなった。

 暴力団が大挙して、大学に乗り込んできたのだ。


 仁一郎は、用心棒たちによって、大木会の本部に運び込まれた。大木会の本部は、広島市内にある丘の頂上にそびえたち、まるで要塞のような建物である。
 すぐに、お抱えの医者が呼ばれたが、やがて救急車によって近くにある大学病院へと搬送された。

 「郷戸(ごうど)、お前がついていながら、どういうことじゃ」
 大木会の会長、大木鷹男(おおきたかお)は集中治療室の前で、痩せぎすで長身の男を睨(にら)み付けた。
 「お前の木刀でもダメだったか」
 太い眉の下の眼を、再び、力なく横たわる息子の顔に落とした。

 郷戸(ごうど)と呼ばれた男は、壁に背をもたれさせ、タオルを巻いた頭を壁につけ返事をしなかったが、二人の用心棒たちは、頭を下げて、小さくなっていた。

 3日間こん睡状態は続き、医者は、回復には「時間がかかる」ことだけを鷹男に告げた。
 鷹男は医者の言葉の意味することをすぐに理解したが、もし、仁一郎にも意識があるなら、これまで、父親の権力と金の力に守られ、育てられた自分の無力さを悟ったことであろう。
 すでに、学生の身元は分かっていた。
 「このままにしてはおけない」
 たかが学生に転がされて、大木会の2代目が意識不明のまま、万一のことがあっては全国の暴力団の笑い種だ。もうじきこの一件は全国に広まるだろう。


  乾いた竹刀(しない)の打ち合う音と、甲高(かんだか)い気合の合間から怒号(どごう)と悲鳴が聞こえてきた。面をかぶったまま、木野花咲姫(きのはなさき)は道場の窓から覗(のぞ)くと、工事用の大型ダンプが大学正門から入り、何か月も前から「授業料値上げ阻止」と書かれた立て看板を突き破り、そのまま、看板の一部を引きずりながら本館の裏へ向かっているのが見えた。同じ型のダンプが2台、後(あと)に続いた。荷台には、作業者風の男達がすし詰めに乗っている。最初は、事故だと思ったが、どこか違う。よく見ると男達は、手に手に木刀や、棍棒、鉄パイプ、竹ざお等を持っている。

 何が起こっているのか分からなかった。すぐに裸足(はだし)のまま駆け出したが、何かを感じ、すぐに引き返して、運動靴を履き、手にした竹刀を木刀に替えて再び飛び出た。途中、何人かの部員も道場へ引き返していた。
 「何があったの!?」
 「わかんねー!!」男子部員は叫びながら道場へ引き返していった。

 一般学生は授業が終わり、バイトか、デートで校内には多くは残っていない。熱心な学生は図書館で学習している時間だ。今いるのは、教授と職員、それに、木野花咲姫(きのはなさき)のようにクラブ活動に精を出しているものだけだ。


 第一グラウンドへ行くと、ダンプは野球部員を蹴散(けち)らし、最初の一台が、ピッチャーマウンドに停車したところだった。最近の日照りで、埃(ほこり)が舞い上がっていた。気象台は、今日は雨になる予報を出していたが、咲姫(さき)は、前を走る男子部員達の袴(はかま)が巻き上げる砂埃を見て「今日もまた外れそうだ」と、思った。

 続く二台も距離をおいて、グラウンドの周囲に向かって扇型に停まった。
  グラウンドの周囲にはプレハブで作られた部室が並んでいる。

 やがて荷台に乗っていた男達がばらばらと降りてきた。降りるたびに埃が舞い上がる。男達の風体は様々であった。アロハシャツに白ズボンにセッタ履きという、典型的なチンピラ風の男もいれば、黒のスーツにサングラスのやくざスタイル、タオルの鉢巻に上半身裸の男もいる。その男達の手にはそれぞれ、何らかの得物(えもの)が握られていた。あるものは木刀を振り回し、あるものは、竹やりを突き出していた。はだけた腕や肩の刺青が汗で光っている。

 「こういうのがヤクザの出入りというものなのかしら」咲姫(さき)は、ぼんやりと思いながら、大きく離れた学生達の円の中からそれを眺(なが)めていた。

 一台目の運転席から二人の男が出てきた。
 一人が叫んだ。
 「拳法部の野郎共、出てきやがれッ!!」
 「これで、分かった」咲姫(さき)は、何日か前の、日本拳法部と大木会のトラブルを噂で聞いていた。


 「出てきやがれー」男は叫んだ。
 遠巻きに見ていた学生の間から一人の学生が進み出た。学友会会長の神代陽平(こうじろようへい)だ。神代(こうじろ)は、新聞部の部長である。
 神代(こうじろ)は、アジで鍛(きた)えた太い声で、
 「あなた方の要求は、校外で聞く」と、叫び、そして、
 「あなた方は今、学校の自治を犯している・・・」と続けたとき、「ビューッ」と石が飛んできて、避ける間もなく、神代(こうじろ)の額に当たった。

 額からは血が流れ出た。
 「何をする!!」
 神代(こうじろ)の後ろから新聞部の一人が叫んだ。
 「うるせーッ、警察がくるまでに話をつけよーぜ、拳法部!!」
 「指一本ですむんだよー!!」
 
 日本拳法部の山口大河(やまぐちたいが)が神代の肩を引いて前に出た。
 「おー、お前かー」
 「お前の指一本で済むことじゃ」
 山口は覚悟は決めていた。
 「この場を収めるには俺の小指を落とすしかないか」
 左小指の付け根にバンテージを巻きながら前へ進んだ。


 本館から数名の職員が、背広の裾とネクタイを風になびかせながら駆けつけたが、
 「いったい何事ですか?あなた方はなんですか?」と、遠くから叫ぶしかなかった。
 男たちは、それには耳を貸さず、男はドスを山口の前に投げた。

 山口は、投げられたドスの前に跪(ひざまず)き、左手で鞘(さや)を握り、右手で柄(つか)を持ち、手前に引いた。ためらいはなかった。一瞬、夕陽で刃(やいば)が光った。時が止まったようであった。夕陽が本館の窓に大きく映っていたのを木野花咲姫(きのはなさき)は今でも覚えている。

 風が吹き、砂塵が大きく舞った。
 男達も学生達も、一瞬目を細めたその時、学生達の輪から風と共に走り出て、山口を跳び越した男がいた。「あっ」と、咲姫(さき)が思ったそのときには、ドスを投げた男は頭を右へ傾(かし)げたまま吹っ飛んでいた。神田龍一(かみたりゅういち)の横蹴りであった。


 吹っ飛んだ男の体が地面に落ちる前に、神田(かみた)の左裏拳(ひだりうらけん)は左側の男の顎(あご)を砕(くだ)き、右上げ蹴りで右の男をくの字にへし曲げた。一瞬の業(わざ)に、男達は、ばっと、輪を広げたが、神田が素手だと分かると、次々に、神田にかかっていった。

 神田(かみた)は立ち上がった山口と共に、男達の竹ざおや、棍棒(こんぼう)、木刀などをかわしながら、一人、二人と、確実に倒していった。大柄の神田(かみた)と小矩(しょうく)ながらもスピードのある連続技が持ち味の山口の二人は、他の大学の拳法部からは、「牛若と弁慶」と呼ばれている。今、その二人が、150人を超える荒くれ男どもを相手に戦いをはじめたのだ。
 後に「暴力団と学生の大乱闘事件」として海外メディアも取り上げた事件の始まりである。
 
 いくら、「牛若と弁慶」でも「限度がある」と、咲姫(さき)が思った時、男達は、学生達に向かって得物(えもの)を振り上げながら、いっせいに向かって来た。そして、男達の一団が、剣道部員のいる方向にも近付いて来た。
 咲姫(さき)に向かって、男の一人が棍棒(こんぼう)を振り下ろした。もう迷っている暇はない。咲姫は、木刀で、その棍棒を左へ払い、返して、胴を打ち込んだ。加減をしたつもりであったが、男は、あばらを押さえて、右膝(みぎひざ)から崩れ落ちた。

 学生達の一部は、新聞部の部室になだれ込んだ。新聞部の部室の床下には、鉄パイプと、角材(げばぼう)が隠されていることは、学生達の間では、公然の秘密であった。さらに、新聞部の部室の裏には、学園祭にかこつけて入手した長尺、3、6m物の角材の束が何束も立てかけてあった。

 「輪を崩すなーッ」 神代(こうじろ)は、額からの血が首筋に流れ込むのを感じながら叫んだ。3年前の「新宿駅騒乱事件」の記憶が一瞬よみがえった。

 今の状況なら、「男達をつぶせる」と思っていた。
 男達は、学生達の輪に取り囲まれた形になっている。これで、バラバラになっては学生達に不利だ。
 「輪を崩すなーッ!!」
 再び、神代は、顎(あご)を上にして、首を回しながら、声を張り上げた。

 最初に、突っ込んできた男達に、学生達は、棍棒(こんぼう)、竹竿(たけざお)で体を打たれながらも、後ろに下がらず、懐(ふところ)に飛び込んで男達と組み合った。その学生達のほとんどは、柔道部、空手道部、少林寺拳法部、ボクシング部などの部員達である。様々な気合と共に、男達は投げ飛ばされ、打ち据えられていった。

 新聞部の部室から運び出された角材や鉄パイプは手渡しで学生達に回されていき、学生達は、その、角材や、鉄パイプを、輪の内側に向け突き出したり、地面を叩いて、男達を威嚇(いかく)した。
  大きな人間の輪の中からもうもうと砂塵が舞い上がり、まるで、火山の噴火口の様(さま)となり、さらに、その輪の中には、小さな輪があり、その人間の輪が、右に左にと動いている。その中にいるのは、日本拳法部の「牛若と弁慶」の山口と神田(かみた)である。輪から、一人、二人と男がはじき出されている。輪の中のふたりが、男達を倒しているのだ。
 「あのふたりを連れ戻さなければならない」神代(こうじろ)が思った時、 ビュン、ビュン、と硬球が中の男たちに向かって飛んで行った。野球部員が次々と硬球を投げつけ始めたのだ。 
 山口と、神田を囲んだ輪が一瞬ゆるんだ隙に、二人は全速で、外に向かって走り、外に向かっていた男達の頭上を跳び越した。



 この間にも、木野花咲姫(きのはなさき)達、剣道部員は、男達と戦っていた。ここでは、女子長刀(なぎなた)部員の長刀(なぎなた)が男達の足を次々と砕(くだ)き、男達をへたり込ませていた。
 咲姫の小手、面の二段打ちも面白いように決まり、男達は棍棒や角材を投げ捨て、苦痛にゆがんだ表情を浮かべて、打たれた箇所に手を当てている。しかし、その男達を押しのけて、次から次へと新手(あらて)が押し寄せる。
 男達の、振り下ろし、振り回す、棍棒や竹ざお、鉄パイプに木刀で対戦するのは不利だが、咲姫は、それらを、ひらり、ひらりと、難無くかわしながら、甲高い気合と共に、目にもとまらぬ早業(はやわざ)で、踏み込んで、得意の面を打ちに行った。
 この面で、咲姫は中四国女子学生チャンピオンになったばかりであった。



 これまでのところは、状況は、学生達が有利であった。この時間には、一般学生は、授業も終わり、すでに校内に姿はない。校内に残っている学生達は、何らかの部に属しているものたちばかりである。そして、今、暴力団と戦っている学生達の大部分は運動部に所属している者達だった。運動部に所属している学生達の連帯意識は高かった。
 そして、その学生達の指揮を執っているのが、新聞部の部長、神代陽平(こうじろようへい)である。神代は、学生達に一目おかれた存在であった。

1968年(昭和43年)アメリカは50万人の兵隊をベトナムに送り込んでいた。1月には、アメリカ海軍空母エンタープライズが佐世保へ入港し、日本のベトナム戦争前線基地化は拍車をかけ、アメリカ軍は、3月、南ベトナムのソンミ村で老人、婦女子ばかり500人以上を虐殺した。そうした状況の中で、日本政府は、ベトナムに向かうアメリカのジェット戦闘機の燃料を中央線を使って横田基地へ送ることを認めた。

 学生達は、ジェット燃料輸送阻止のため、10月21日国際反戦デーのこの日、全国から、新宿駅に集まった。神代もその中にいた。
 神代は「革命前夜」になることを願っていた。あちらこちらで、火の手が上がり、催涙ガスと投石は「革命」の前兆に相応(ふさわ)しいものだと神代(こうじろ)には思えた。
 しかし、実態は、程遠いものであった。神代や学生達の思い込みは一般大衆からの支持を得ることはできず、大衆から非難の声さえ聞こえてきた。また、神代自身も、民衆の支持のない学生運動の限界を、このとき初めて感じた。

 催涙ガスでうずくまる神代に機動隊員の警棒による打撃は容赦(ようしゃ)なく振り下ろされた。気を失いかけた時、背広姿の若い男にようやく助け出されて、その男の差し出した赤いタオルで額を押さえながら新宿駅構内に逃げ込んだ。新宿駅構内では、停車中の電車に火が放たれ、電車は、めらめらと燃え上がり、鼻をつく異臭が充満していた。

 神代(こうじろ)の眉間にはすでに、この時に機動隊から受けた警棒の傷があった。 学生達には、神代の額の傷は輝いて見えた。今また、その傷口が、暴力団の投石によって広がったのだ。



  ダンプカーの荷台が大きく揺れて、巨大な男が上半身むき出しで降り立った。跳び下りた足元からは、砂塵が舞い上がり、さらに、その大男は荷台から、まだ、皮もはいでいない、直径が、30cmほどの丸太を引きずり出し、肩に担いで、学生達の輪の一角に向かっていった。遠目にも、男の巨大さが分かり、学生達は動揺した。男の盛り上がった肩とはちきれんばかりの胸の筋肉には圧倒的な威圧感があった。

 男は、4m近い丸太を振り回し始めた。振り回すたびに、ブン、ブンと音がし、木屑(きくず)が飛び散った。大男が向かっている学生の輪が崩れ始めた。陸上部の槍投げ選手が角材を投げ、それに続いて、次々と、他の学生も、角材を大男に向かって投げ始めたが、大男は、体に当たる角材をものともせずに学生達に向かっていき、ついにその、振り回す丸太は、学生達をなぎ倒し始めた。倒れた学生を足蹴(あしげ)にしながら、大男は前進している。

 「戦場で、歩兵に向かう戦車だ」
 そう思いながら、神代はその大男の向かう先へと走った。

 学生達の崩れた輪の間から日本拳法部部長、山口と神田(かみた)が現れ、大男の前に立ちはだかった。山口と神田(かみた)は、はだけた胴着を合わせ、帯を締めなおし、お互いの距離を4m開け、大男から5mの距離を空けて大男に対峙(たいじ)した。



 大男は、丸太をブンブンと振り回しながら、右と左に分かれて立つ山口と神田(かみた)をギロリと見やり、小柄な山口の方へと足を踏み出した。神田はそれを待っていた。バッ、と胴着を風に鳴らし、地を蹴り、大男の首筋に横蹴りを見舞った。大男の首筋から汗が飛び、一瞬ぐらついた。その隙を狙って、山口は連続直突と横打ちをわき腹に打ち込んだ。そして、横に回転しながら、脇を抜けて、男の後ろに逃げ込もうとした。しかし、大男の丸太が、一瞬早く、回転する山口の背中をとらえ、山口を弾(はじ)き飛ばした。神田は大男が丸太を山口に向かって振り上げた隙を狙って、わき腹の同じ箇所に左横突き蹴りを放ったが、大男が振り向きざまに振った丸太が神田の肩を殴打し、神田も地面に向かって倒れこんだ。

 山口と神田(かみた)は、倒れながらも回転し、大男から離れ、態勢を取り直し、再び、大男に向かおうとしたとき、
 「神田さん!!」と、後ろから声がした。

 相撲部主将の南幸吉(みなみこうきち)である。



 胸に修道館大学のマークの刺繍されたジャージを着て、まわし姿で南は立っていた。
 南は、角材を、束のまま両方の脇の下に一束ずつ挟み、その角材の一方の端は大砲のように大男に向けられている。
 「神田(かみた)さん、ここは俺に任せて、あんた達は他へ・・・」
 「すまんな」
 「この場は南に任せるしかないだろ」ふたりは、そう思いながら戦いの不利になっているところへと向かった。
 すでにあちらこちらで、学生達の輪は崩れて、個人戦の形になっている。

 南は、抱えていた角材の束を下へ落とし、着ていたジャージを「バッ!!」と脱ぎ捨て た。大男も、南の意図を察し、抱えていた丸太を軽々と投げ捨てた。そして、やっと己(おのれ)にふさわしい対戦相手を見つけた喜びで、にやりと笑い、額から流れ落ちる汗をぺろりとなめ、口の渇きを潤した。

 南も190cm、160kgの巨漢であるが、大男は、さらに一回りは大きい。その大男が、闘牛のごとく南めがけて突進してきた。南も、腰を落として、前のめりで大男めがけて突進した。お互いの距離は10m。あっという間に距離は縮まり、「ガッ!!」と、岩と岩がぶつかる音がし、汗と砂塵が舞い上がった。飛び散った汗が夕陽で光った。ぶつかった反動で、南は上体を起こし、大男の分厚い胸に速射砲のようにツッパリを放った。「バ、バ、バ、バンッ!!」大男の気勢が弱まった隙に、右手で大男のズボンを鷲掴(わしづか)みにし、左に身を回して投げを打とうとした。しかし、大男は、上から南を押しつぶすように被(かぶ)さってきた。大男の左手は南の右上腕を掴み、ぎりぎりと指を喰いこませ、右手は南の肩越しに後ろまわしを「ガッシ!!」と掴んだ。南の頭は、大男の胸の下に入り込んだ。



 夕陽が映る本館の5階の窓から、眼下で繰り広げられている闘いを眺めている男がいた。修道館大学学長、小森喜楽(こもりよしもと)である。学校職員達は警察に連絡する許可を学長に求めたが、小森は頑(がん)として拒否した。
 「学問の自由と、学校の自治独立は、官憲の介入で守られるべきものではない」
 それが、明治生まれの漢物、小森の信念であった。つい2ヶ月前には、ミュンヘンオリンピック、水泳種目へ出場する多口、本田、両水泳部員の壮行会で、赤ふんどし姿になって、ふたりに檄文(げきぶん)を読み上げたばかりである。小森は学生達の圧倒的な支持を得、また、小森自身も、学生達を全面的に応援、信頼していた。

 木野花咲姫(きのはなさき)は、ただ、ひたすら、男たちの振り下ろし、振り回す棍棒や木刀をかわしながら、面を打ち続けていた。その、咲姫の耳に「ドン、ドン」と大太鼓の音が聞こえてきた。
  「あの音は・・・」
 紛(まぎ)れもなく、修道館大学応援部の大太鼓の音である。音のする方向を、中段に構えながら、対峙(たいじ)する男の頭越しに見ると、本館屋上で団旗を翻(ひるがえ)す部員のそばには、いつもの、大太鼓を叩く応援団団員の姿があった。その前には、学生服姿に下駄履きの男が立っていた。修道館大学応援団団長の連山国男(れんざんくにお)だ。



 連山(れんざん)は両手に大根を持ち、「闘いの唄」を張り上げていた。壮行会で聴くいつもの歌だ。
 日本拳法部の山口も得意の連続突きを入れながら、神田(かみた)も蹴りを打ちながら、その太鼓の音を聞いていた。学友会会長、そして新聞部部長の神代(こうじろ)も夕陽に浮かぶ本館屋上を見上げていた。

 相撲部主将の南幸吉(みなみこうきち)は大男の下になったままだ。すでにこの体勢のまま5分はたっていた。最初の激突から、お互いの体勢は変わっていない。ふたりは、全身の力を出し続けていた。ふたりは、新たな技を出そうとはせず、ただ、力と力を出し切り、雌雄(しゆう)を決しようとしているのだ。相撲部員は、ふたりの闘いに邪魔が入らないように、ふたりを取り囲む輪を作り、固唾(かたず)を呑んで両者の闘いを見守っている。南の全身の筋肉がぶるぶると震え始め、ついに、南は、「ガクッ」と左膝を落とした。無理もない、あの200kgはあろうかと思われる大男が全身の力を出して、南の上にのしかかっているのだ。
 「あ、あーっ!!」相撲部員が悲痛の声を上げたとき、太鼓の音が響いてきた。



 応援団長の連山国男(れんざんくにお)は、のども裂けよとばかりに「闘いの唄」を歌い続け、太鼓を叩く部員も、バチよ折れ、皮も裂けよとばかりに、太鼓を叩き続け、団旗は千切れんばかりに振られている。唄も太鼓も、そして応援団旗も、いまや、相撲部主将、南一人のために向けられているのだ。

 「むおーっ!!」
巨大な背中から野獣の咆哮(ほうこう)とも思える声が上がり、さらに、南を押さえつける。ふたりの闘いを見つめる者たちには、何トンという重さが、南の肩にのしかかっているかのように思えた。
 大きな背中に大粒の雨が一粒落ちた。やがて、二粒、三粒と、雨粒が落ち始め、雷鳴と共に、大雨になった。2ヶ月ぶりの雨である。
 「ピカッ」と光った稲妻に、大男の背中が光った。

 「むおーっ!!」
 再び、大男が叫んだ時、大男の背中が、「ぐぐっ」と、わずかに持ち上がった。南が、その巨大な男を持ち上げようとしているのだ。
 雨は、ますます激しさを増し、海辺に近い修道館大学のグラウンドは、一面水浸しになってきた。
 南に覆(おお)いかぶさる大男は眼を剥(む)いて全身に力をこめている。しかし、「ドン、ドン」という太鼓の音と共に、南の膝は徐々に伸び、全身の筋肉は、隆起し、血が噴き出さんばかりに赤くなっている。

 「ドドーン!!」
 雷鳴と共に、南は、ついに、大男を肩で担ぎ上げた。
 「おおーっ!!」という声が周りから起こった。
 暴力団の男達も、学生達も、今や、このふたりの闘いを見守っている。
 大男は、信じられないという顔で南を見つめながら、それでも、地面に足をつけようとしてもがいる。
 南の体は仁王のように膨れ上がり、足を一歩踏み出した。雨は降り続き、グラウンドは田んぼのようになっている。南の足は、泥沼となったグラウンドに10cmは埋まり込んだ。

 「ビシャッ」一歩、「ビシャッ」また一歩と、南は、大男を担いだまま、歩(ほ)を進めた。その後ろには、穴となった足跡が残り、雨が流れ込み渦を作った。
 再び、「ピカッ」と光った稲妻の中で、ついに南は、両手で男を持ち上げ、「ドカーン」という雷鳴と共に、大男を、ダンプめがけて投げつけた。大男は肩でダンプの前部を壊し、そのまま泥沼と化したグラウンドに頭から落ち、悶絶(もんぜつ)した。大きく開いた口に泥水が流れ込んだ。これが大男にとって最初の敗北であった。
 「おおーっ!!」という驚嘆と歓喜の声が、学生達から沸きあがった。
 学長の小森は、窓を開け、振り込む雨に打たれながらこの様子を満足げに眺めていた。木野花咲姫(きのはなさき)は、木刀を上段に構えたまま、感動で動けなかった。日本拳法部の山口は部員に肩を預け、右拳を天に突き出し、雨粒を打った。神田(かみた)は乱れた胴着を正し、南に礼を尽くした。

 「バーン!!」
 雷鳴とは違う音が鳴り響いた。大男が投げつけられたダンプから、一人の男が降り立ち、雨の降る空に向かって拳銃を発射したのだ。未だに意識の戻らない大木仁一郎の息子、隆伸(たかのぶ)である。
 「もう、容赦はいらん!!」
 「ぶっ殺してやる!!」
 銃口は、南に向けられ、引き金に指がかかった。

 「やめろ!!」
 ダンプの屋根の上に立つ長身の男が、雨音を切り裂くような太い声で言った。
 「俺たちの負けだ」
 頭に赤いタオルを巻きつけ、右手に赤い木刀を持った男の顔が、稲妻の中で白く浮かび上がった。
 「郷戸(ごうど)・・・!?」
 剣道部の木野花咲姫(きのはなさき)、新聞部の神代(こうじろ)、そして、日本拳法部の神田(かみた)、三人は同時に郷戸の名前を口にした。

 「なんでじゃァ!?」
 「ドカーンッ!!」「ゴロゴロゴロ・・・」
 隆伸の声は雷鳴に打ち消された。
 「引き上げだっ!!」
 郷戸の声に、男たちは体を引きずり、仲間を支えながらトラックの荷台に乗り込み始めた。倒れた大男は10人がかりで荷台に引きずり上げられた。
 「ま、待てェ」
 「お、お前ら!!」と、隆伸は顔を赤らめ男達に叫んだが、所詮、隆伸も一人では何も出来ない男であった。



 ダンプは、後輪をスリップさせながらグラウンドを一周し、校門へと向かった。郷戸(ごうど)を屋根に乗せたダンプが、咲姫(さき)、神代(こうじろ)、神田(かみた)の前に来たとき、郷戸は、屋根を木刀で、「ゴンッ」と突き、停まるように合図した。

 「勝負はお預けだな」神田(かみた)に言った。
 「腕を上げたな」木野花咲姫(きのはなさき)に言った。
 「血を拭け」神代(こうじろ)にこう言って、額に巻いた赤いタオルを神代に投げた。

  体力を使い果たして、雨の中に座り込んだ南は山岳部の多良千月(たらちづき)に背負われて相撲部部室に運ばれた。多良は、その脚力を買われて、2年前の1970年、日本山岳会のエベレスト登頂隊の一員として、植村直己(うえむらなおみ)のエベレスト登頂をサポートした経歴がある。多良にとって、南を背負うことなどわけはなかった。山岳部部員の間では、当時、騒がれた、中国山地の「ヒバゴン」は、この多良のことではないかと言う噂があった。多良はエベレスト遠征に備えて、広島県と島根県にまたがる比婆山中で、連日、荷揚訓練(ぼっかくんれん)をしていたのだ。多良は、毛皮のベストを着て、毛の帽子をかぶり、毛の尻皮を腰にぶら下げて山中を歩いていたので、住民が見間違えたのではないかというのだ。



 郷戸(ごうど)は学生時代から天才剣士として全国に名をはせ、その、殺気を帯びた剣さばきにあこがれる者も多かった。木野花咲姫(きのはなさき)もその一人であった。しかし、その太刀筋(たちすじ)は日本剣道連盟からは邪道の剣として認めてはもらえず、全国大会に出場する権利は与えられなかった。郷戸の剣は、咲姫の、面を打ちに行く正統派の剣道とは違い、隙あらば、どこでも打ち、突き、反則と判定されることを恐れない「邪剣」であった。その頃の郷戸は自分が陰の道を歩んでいることを気付くには若すぎた。

 その剣の素質を見抜き声をかけてきたのは、三島由紀夫であった。三島は、時代が急速に旋回するのを憂(うれ)い、反革命の起爆剤となるべく「盾の会(たてのかい)」を結成し、その会員として郷戸を誘ったのだ。郷戸は、自分を認めてくれた三島のためには眠る時間さえをも削って動いた。
 1968年(昭和43年)「楯の会」結成後間もなく「新宿駅騒乱事件」が起き、三島は、会員と共に、この騒乱の視察をした。



  郷戸(ごうど)は、三島の命を受け、銀座から新宿へと回り、新宿駅の近くで、機動隊員に囲まれて、めった打ちにされている学生を見つけた。機動隊員に「楯の会」の会員であることを告げ、そして、学生を解放させた。学生に名前を聞かれ「楯の会の郷戸だ」と名乗り、学生の割れた額を赤いタオルで巻いてやった。

 「新宿駅騒乱事件」の視察の後、三島は、自衛隊の存在に危機感をつのらせ、2年後の1970年11月25日、「楯の会」会員4人と共に、自衛隊の決起を促すべく、自衛隊東部方面総監部へ乗り込み、割腹して果てた。
 郷戸(ごうど)は、事前にこのことを知らされず、尊敬する三島と共に死ねなかったことに落胆した。その後、警察の取調べを何度か受け、翌年には三島の支援者の政治結社のひとつに身を寄せ、やがて、暴力団の用心棒へと身を落とした。



 咲姫(さき)は木刀を左手に移し、他の部員と共に、濡れたポニーテールを揺らしながら道場へと向かった。神代(こうじろ)は郷戸(ごうど)が投げてよこした赤いタオルで割れた額を押さえたが、新宿の時と同じ様に血は流れ続けた。神田(かみた)は、拳法部の部室入り口に積まれたブロックの上に座り込み、天を仰いで、降り続ける雨を口に含んだ。雨はそのまま翌朝まで降り続いた。

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