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第7話 熱風!!バンコク 1972年(昭和47年)11月 タイ 首都バンコク [ミステリー小説]

 1972年(昭和47年)11月 タイ 首都バンコク

 「も〜っ、エエ加減にせんかいなー。ワテも終(し)まいにゃ、怒るでー、あんたらぁッ」
 そう日本語で言いながら、中年の額(ひたい)が禿(は)げ上がった男が、人混みを掻き分けて小走りでやって来た。周りのタイ人や、白人のアベックのヒッピーや観光客達は、何事が起こったのかと振り返ったり、追い越された男の後姿を目で追った。その中年男の後ろから5、6人の日本人が追いかけて来た。

 「エエ加減にせぇ言うとるやろ」と、少し大きな声で振り返って言った拍子に、男の体が屋台のテーブルに「ドンッ」と当り、テーブルが大きく揺れて、客が食べていたトムヤングンが鍋ごと道へ音をたてて転がり落ち、客の男達の怒声と共に白い湯気が上がった。落ちたエビはさっそく野良犬の夕食になった。

 郷戸一星(ごうどいっせい)は、安定の悪いテー ブルで、ちょっと酸っぱいタイチャーハンを食べながら生ぬるいシンハービールを飲んでいたが、テーブルが揺れる直前にフォークは口にくわえ、チャーハンの皿とビール瓶を持ち、立ち上がっていた。

 先程からこのテーブルでは、郷戸と一緒に三人の男達が、トムヤングンを食べていた。でっぷりと太った男は、シャツの前をはだけ、買ったばかりの黒ズボンの裾(すそ)を捲(めく)り上げて、汁を飛ばさないように気をつけながら食べていた。髪の毛をきれいに刈り上げた男は黒いシャツの裾(すそ)をよれよれのグレーのズボンの上に出し、へらへらと太った男に愛想笑いをし、遠慮しながら鍋から具を自分の皿に少しずつ移していた。もう一人の男は前歯のない口を開け、1本だけ残っている下の歯をいじりながら、時々、郷戸の方を見ては、何やら二人に言ってはニタニタと笑っていた。三人ともシャツの袖(そで)からは刺青がのぞいていた。



 テーブルが大きく揺れて、 男達の食べていたトムヤングンが鍋ごとひっくり返り、太った男のズボンにかかった。太った男は、怒鳴りながら、新しいズボンにくっついた野菜の切れ端を払い落とし、テーブルの上に残った皿を右手で掴(つか)んで、ぶつかった日本人の顔めがけて投げつけた。皿は男の左頬に当たりはじき飛んだ。
 「あー、堪忍(かんにん)してーッ」男は両の手のひらを広げ太った男の方に向け細(こま)かく動かした。
 髪の毛を刈り上げた男が左手で男の襟首(えりくび)を掴み、右手で思いっきりその男の左頬を殴った。男は、たった今飛び散ったトムヤングンのスープと具の上に、ザッ!!と半回転して前のめりに倒れこんだ。その瞬間、野良犬は、さっと横へ1mほど逃げたが、犬はそこで振り向き尻尾を後ろ足の間に巻き込んだまま、再び、目の前にあるエビの魅力に負けて戻ってきた。

 前歯のない男がゴムぞうりを履いた足で倒れこんだ男の背中を2、3度踏みつけた。
 男の小奇麗な白いシャツにはゴムぞうりの黒い跡が残った。



 追いかけてきた男達は、突然、倒れた男の写真を撮りはじめた。フラッシュが「パッ、パッ」と光ると、辺りの野次馬は余計に増えてきた。太った男は、自分の濡れたズボンが足にくっつくのを防ぐように両手で両腿(りょうもも)の部分をつまみながら倒れた男のところに近づくと、倒れた男の腹を思いっきり蹴り上げた。追いかけてきた男達は、なおも写真を撮り続けている。

 「ググッ・・勘弁してーな・・」倒れた男は、なおも日本語で力なく言った。
 「ゲフッ、あんたら、・・・もう、エエ加減にしてーな・・・」そう言って立ち上がろうとしたが、前歯のない男が中年男の足を払った。また、男は地面にひっくり返った。太った男は地面に転がったステンレスの鍋を拾い上げ、倒れた男の側頭部めがけて振り下ろした。
 太った男は振り下ろした手が、スカッ、という感じで、手が急に軽くなり、体のバランスを崩しそうになった。そして、鍋が「カーン!!」という音と共に5m向こうに飛んでいった事にようやく気がつき、空(から)になった右手を見た。

 郷戸(ごうど)は、フォークを口にくわえ、左手に皿を持ち、右手はビール瓶から木の棒に持ち替えて立っていた。男達には、どうして鍋が吹っ飛んだのか分からなかった。



 太った男が何やら低い声で郷戸(ごうど)に言った。郷戸には何を言っているのか理解できなかった。男はもう一度何かを言った。それでも郷戸は、口にフォークをくわえ、左手にはチャーハンが半分ほど載った皿を持ち、右手には1、5m程の丸棒を持って立っていた。男達は1mほどの間隔を置いて郷戸を要(かなめ)にした扇形に三人並んで立った。太った男が刈り上げ頭の男へ顎をしゃくって何やら言うと、刈り上げ男はニヤニヤ笑って、左手で服の裾(すそ)をまくり、右手でズボンのベルトに挿していた黒光りのする自動拳銃を引っ張り出した。

 取り囲んでいる写真を撮っていた日本人達や、白人ヒッピーや観光客、野次馬のタイ人達に一瞬緊張が走り、それまで囲んでいた輪が一斉に広がった。

 倒れている男は、両手を支えにして、尻をついたまま拳銃を見つめていた。その隣では野良犬が、「ぺチャ、ぺチャ」と音をたてて、こぼれた汁をなめている。真ん中に太った男、その左に歯ナシ男。右に拳銃を持った刈り上げ男。
 刈り上げ男は何やら言いながら銃口を郷戸(ごうど)の方に向けた。太った男は、目は郷戸に向けたまま、緊張した顔で、刈り上げ男に何やら言うと、刈り上げ男は薄っすらと額に汗を浮かべながら、左の手の平で銃把(じゅうは)の尻を支える様にして銃口を郷戸の顔に向け、右手の人差し指でゆっくりと引き金をしぼり始めた。



 「本気で撃つつもりだろうか?」郷戸(ごうど)は判断に迷ったが、両手を広げてゆっくりと上へ上げた。そして、左手のチャーハンの皿を持つ指を広げて、野良犬の頭の上に落とすと、ビックリした野良犬は「キャン」と短く鳴いて飛び上がった。辺(あた)りの緊張が途切れたその瞬間に、空いた左手で口にくわえたフォークを銃を持った刈り上げ男の右肩へ投げた。フォークは飛ぶ姿も見せずに狙ったところに突き刺さり、刈り上げ男の銃を持った手が、「グッ!!」と言う声と共に右へ揺れた。フォークが郷戸の左手を離れると同時に右手に握られた棒は振り上げられ、太った男の鼻先をかすめた。



 振り上げた棒を、左手に持ち替えてそのまま歯ナシ男の口の中に差し込み、グイッ、と、一押ししておいて、刈り上げ男のみぞおちを右足で蹴った。刈り上げ男が倒れる寸前に郷戸はその男の右手を掴(つか)んでひねり上げ、自動拳銃を奪った。 太った男は右手を振りかぶり、前に出ようとしたとき、鼻がスーッとした感覚に捉(とら)われた。男は左手で鼻を触るとあるはずの左の小鼻がないことに気が付き、左手で鼻を覆い、右手を振り上げたまま動かなくなった。

 「この技はなんだ!?」男達にとっては初めて見る技だった。
 郷戸は、歯ナシ男の口から棒を抜いた。その拍子に1本だけ残っていた下の歯がポトンと地面に抜け落ち、野良犬がパクッと食べた。引き抜いた棒を太った男の鼻先に突きつけ、そのままゆっくりと通りの向こうへ向けた。太った男は、郷戸の意味することを理解し、細かく頷(うなづ)き振り向いて、ゆっくりと歩き始めた。野良犬は、「カッ!!」と、歯を吐き出した。男達が背中を見せた時、郷戸は自動拳銃の弾装(だんそう)を引き抜いた。そして、スライドを後ろに引っ張り、薬室内の弾を落とし、
 「ヘイ!!」と男達の背中に声をかけた。男達は、ビクッ、と肩を動かし、ゆっくりと振り返った。
 
 郷戸は、刈り上げ男に向かって銃を放った。刈り上げ男は右肩を押さえていた手の腕と胸の間で銃を受け止め、太った男と顔を見合わせて、「どうしようか」と、迷った顔をしたが、そのまま去っていった。
 男達が去ると、たちまち、先ほど追って来た日本人達が近づいて来て、カメラを構えた。郷戸は、男達に、ダッ、と近づき、3台のカメラを棒で叩き落し、リーダー格の男の顔先に棒を向け、「ゴー」と言った。
 男は、
 「少しお話を・・・」と言ったが、郷戸は日本語が分からない振りをして、再び、
 「ゴー」と、強く言った。男達は、カメラを拾い上げながら、
 「なんだ、日本人じゃねぇのかよ。今日のとこは引き上げるか。ひでえな、このカメラ、使えるかな・・・」などと言いながら来た方向へ帰っていった。



 郷戸(ごうど)は倒れた男の腕を取り、椅子に座らせると、野次馬達は、もう、これ以上騒ぎが起きないことを知り、ゆっくりと散っていった。郷戸はズボンのポケットから100バーツ紙幣を出し、テーブルの上に置いて去ろうとしたが、男は、
 「ちょ、ちょっと待ってえな、兄ちゃん」そう言って郷戸の腕を掴(つか)み、
 「ほんまに、助かったわー、えらい目におおてしもたがな。おおきに、おおきに」そう言って、頭をテーブルの上にぶつけるように何度も何度もさげた。そして、顔を上げ、上目遣いで郷戸を見、
 「あんさん、日本人だっしゃろ?隠さんでもええがな。ワテにはわかりまっせ」
 郷戸は返事をしなかった。

 屋台の娘がタオルを持ってきて、男に差し出した。男は顔を上げて、
 「?」と言う顔をすると、娘は、タオルを自分の顔の口のところに持って行き、拭く真似をした。
 「あー、そうかいな、おおきに、おおきに」男はそう言って娘からタオルを受け取り、口の端の血を拭き、
 「ほんまに、やさしいなー、タイの女子(おなご)は」そう言いながら腕の泥をそのタオルではたき落とした。

 郷戸は、テーブルの下に置いていたナップザックを掴(つか)んで、棒に引っ掛け、その棒を肩に担いだ。
 「待ってーなー、兄ちゃん」そう言って、ポケットから100バーツ紙幣を1枚取り出し、娘の手に握らせようとしたが、娘は受け取ろうとしない。
 「なんでや、ええから、取っときーな」そう言って無理やり娘の手に握らせた。



 「兄ちゃん、どこ行きまんのや?泊るとこありまんのか?」男は、早足で歩く郷戸の後ろから声をかけた。
 「もうちょっと、ゆっくり歩きいな、ハア、ハア」
 「ついて来るなよ。ごたごたに巻き込まれるのはごめんだ」前を見たまま答えた。
 「あー、やっと喋(しゃべ)ってくれたなー」男は、タタタッ、と、郷戸のすぐ後ろにくっついた。

 「あんた、何をしたんだ?さっきから、さっきの男達とは違う男がついて来てるぜ」早足で歩きながら、男に言った。
 「えっ、ホンマかいなー!?」男は振り返った。
 「あっ、ホンマや。ひつこいなー。タイ警察やがな」
 「タイ警察?あんた何をしたんだ?」
 「兄ちゃん、あんさん、もうワテに関わってしもうたんや」そう言って郷戸の横に並んで顔を見上げてニコッと笑った。
 「ワテ、玉木言いまんのや、よろしゅうな」



 「宿はどこでんのや?」
 「玉木さんと言いましたかね。もう、俺には構(かま)わんでくれ」郷戸は、香港からの飛行機の中で若い日本人のバックパッカーから、安宿街はファランポーン駅の近くの中華街にたくさんあると聞いていた。空港からは汽車に乗って先程駅に着いたばかりだった。腹が減ったので、まず腹ごしらえをと思い席についたところでこの騒ぎに巻き込まれてしまったのだ。

  「兄ちゃん、あんさんも訳(わけ)ありやなぁ」玉木は郷戸(ごうど)の言葉には構わず、ゆっくりと言った。郷戸は、ファランポーン駅の方へ向かって曲がろうとした。
 「あかん、あかん、そっち行ったら、中華街や。日本人だらけや。日本人の追っ手が来ても目立たへんから、追っ手の姿に、気ぃつきまへんで」
 「隠れんのなら、ワテのとこ来なはれ。ワテは、こっちに部屋持ってまんのや」
 「男の言うことにも一理あるな」そう思い男の手に引かれるまま大通りに出た。玉木と名乗った男は、
 「今晩はほんまに助かったわー」と言いながら、人差し指を立てた右手を斜め下に突き出しトゥクトゥクと呼ばれるオート三輪を停めた。そして、
 「マレーシア、マレーシア」と言って座席に郷戸(ごうと)を押し上げ、続いて乗り込んだ。トゥクトゥクは青白い煙と叫び声を吐き出し、熱風を切り裂いて走り始めた。



  トゥクトゥクの座席に取り付けてある小さなサビの浮いたパイプを握った左手の甲には汗が滲(にじ)んでいる。郷戸(ごうど)は手の甲に浮かんだ汗を見ながら、体中の汗腺から汗が出ているのを感じていた。やがて、トゥクトゥクは中心部へと向かい、オレンジ色の灯りが辺りを包み始めた。

 街が叫んでいた。2サイクルエンジンの燃えるにおいと吐き出される咆哮(ほうこう)、ディーゼルエンジンの甘い黒煙と唸(うね)り声が街中を覆い、絶え間なく響き渡るクラクションは街の悲鳴にも聞こえる。

 「え?」
 せやから、さっきからあんさんのお名前を聞いてまんのや」
 「ああ、郷戸(ごうど)」前を見ながら答えた。
 「え?」
 「ご、う、ど」ゆっくりと大きい声で言った。
 「どういう字を書きまんのや」玉木は右手でパイプを強く握り締めながら、郷戸の顔を覗き込んだ。
 「故郷(ふるさと)の ゴウ に扉(とびら)の ト」
 「あーあ、郷戸さん。エエ名前やないいか」大きくうなずいた。
 「故郷(ふるさと) の 戸(とびら) かぁ。エエ名前や」繰り返しうなずき、それからしばらく黙った。

 ふたりを乗せたトゥクトゥクは屋台の並ぶ道路を通り過ぎ、やがて左手に大きな公園を見ると、右へ曲がり、細い路地の中へ入って行った。



 「さ、着きましたで」ヨイショという感じで玉木はトゥクトゥクから降りて、郷戸に聞いた。
 「郷戸(ごうど)はん、あんた、荷物は?それだけかいな?ごっつう、身軽やな」そう言いながら、ドライバーにお金を渡した。

  「この先は行き止まりになってまんのや。なんやしらん、タイの街中は行き止まりが多いてな。こっちやで」玉木は、禿げ上がった額に垂れた髪をかきあげながら、通りの奥へ向かって歩き始めた。狭い通りの両側には小さな雑貨屋や食堂、ゲストハウスが並んでおり、それぞれの店の看板が無秩序に通りへ向かって突き出している。店先のテーブルでは、アメリカやヨーロッパ系の長髪のヒッピースタイルの若者達がタバコをふかしたり、ビールを飲んでいる。彼らは、バイクや、トゥクトゥク、タクシーがクラクションを鳴らしながら行き交っている通りを慣れた足取りで歩いている。

  「ほら、見てみいな。白人のヒッピーばっかりやろ。こんな中、日本人がうろついっとたら、すぐ目に付くで。この先曲がったとこが、マレーシアホテルや」玉木は振り返って郷戸に言った。
 「逆に、俺達の方も目に付きやすいだろ?」郷戸は辺(あた)りを見回しながら聞いた。
 「心配要らん。そんなんペラペラしゃべる奴はこの辺りにはおらへん。逆に、変な奴が来たら、すぐ連絡が入るさかいにな」ははっ、と笑いながら答えた。

 「ここや。おーい、今帰ったでぇ」階段下の鉄格子を握ってガチャ、ガチャ、と、鳴らすと、若いタイ女が「ペタ、ペタ、ペタ」と階段を下りて来て、「ガチャ」と鍵を開けた。女は郷戸を見ると恥ずかしそうにすぐに階段の上に駆け上がって言った。
 「なんや。恥ずかしがっとんのかいな。しゃあないな。ま、上がり」そう言って先になって階段を、ヨイショ、ヨイショ、と上がっていき、階段を上がったところにあるドアを開けた。中に入ると、10mくらいの廊下があり、その左側に3つ木のドアがある。二番目のドアを開け中に入って、郷戸を招きいれた。

 「ま、楽にしてや」そう言って、ソファーを部屋の真ん中に引き摺(ず)ってきて、冷房のスイッチを入れて、部屋を出て行った。しばらくして、タイの若い女をふたり連れて戻ってきた。さっき、鍵を開けた女もいる。
 「郷戸はん、紹介しとくわ。こっちがルミ子で、そっちの若いのんが沙織(さおり)ちゅうんや」
 「・・・」
 「サワッ ディ カー」女達は顔の前で合掌して軽く頭を下げ、ニッコリと微笑んだ。
 「ワテの女房や」



  玉木はふたりの女の肩を抱き、ドサッ、とソファーに腰掛けた。ルミ子と呼ばれた女が玉木の顔の傷に気付き、沙織に何やら言うと、沙織が立ち上がりドアの方へ向かった。玉木は沙織の尻をサッと撫でると、沙織は、「キャキャ」と笑いながら部屋を出て行った。

 「ほんまに、タイの女子(おなご)はかわいいもんや」そう言って、ルミ子に向かってコップで飲むジェスチャーをした。ルミ子もそれを見て部屋を出て行った。
 「郷戸はん、あんさん、ワテが変な男や思うてるやろ」
 「普通じゃないだろ」
 「せらせやなぁ」そう言って立ち上がり、窓を開け、胸ポケットからマルボロを取り出し、外に放って、窓を閉めた。

 「なあに、さっきのタイ警察の兄ちゃんや。あの兄ちゃんもご苦労なこっちゃ」
 「つけてたのか?」
 「いやぁ、あいつら、この場所は知っとんのや」
 沙織と呼ばれた女がタオルと水の入った洗面器を持ってきた。
 「故郷(ふるさと)のドア、か」
 沙織は玉木の横に座り、タオルを濡らして固く絞り、玉木の顔をやさしく拭き始めた。
 「エエ名前やな。郷戸はんはどこの生まれでんのや?」
 「奈良」そう言って立ち上がり、窓の外を見ると、若い私服警官がマルボロの封を切っているところだった。
 「へー、それにしては、訛(なま)りが出まへんな」左手で沙織の肩に手を回しながら聞いた。
 「で、あんさん、何でまたこないなとこまで?」
 「尋問か?」
 「いやいや、気い悪うしたなら、ごめんやっしゃ」沙織の肩に回した手をはずし大げさに手を振った。



  ルミ子がトレーにウィスキーの壜(びん)とコップを載せて戻ってきて、トレーごとベッドの上に置いた。玉木はウィスキーの蓋を開け、琥珀色(こはくいろ)の液体を二つのコップに注いだ。
 「ま、お近づきのしるしに」そう言ってグラスを郷戸に渡し、自分もグラスを持った。
 「これは、タイのウィスキーのメコン言いまんのや」そう言いながら自分のグラスを郷戸のグラスに「コチッ」と当てた。そして、「グイッ」と一口飲んで、
 「フーッ」と息を吐いた。
 郷戸も一口飲んだ。
 「どないだ?サントリーレッドみたいな味だっしゃろ?」そう言って、顎をドアのほうに向け、ふたりの女に出て行くように合図をした。

 「飲み難(にく)いようやったら、これ足しなはれ」そう言って、トレーの上のソーダの壜(びん)を持ち上げた。
 「あんさんのことばっかり聞いて悪るおましたな。ワテは今、チェンマイに住んでまんのや」
 「チェンマイ?」
 「ここからバスで10時間くらい北に行ったとこや。もうちょっと行くとラオス、ビルマの国境や。ええとこやで。ここみたいにジメジメしてへんし」
 「そこで、今のふたりの奥さんと?」
 「いや、女房は20人や」そう言うと、玉木は、グイッ、とメコンを飲み干した。



  「さっきの週刊誌の連中な、あの連中は、それがおもしろおて、タイくんだりまでワテを追いかけてきましたのや」椅子から上半身だけ前に起こして郷戸(ごうど)に言った。
 「週刊誌?ああ、さっきのカメラの連中」
 「ワテのこと、チェンマイのハーレム男、とか言うてな。はははっ。お蔭さんで、大迷惑や」そう言って悲しげな顔をした。

 「ワテの夢はあいつらのおかげでパーや」再びソファーの背もたれに向け背中を倒し目を閉じた。そして、目を開き、
 「郷戸(ごうど)はん、郷戸はんは、こっちに何か予定でも有りまんのかいな」
 「いや、別に・・・」
 「せやったら、2、3日こっちで休んでから、ワテと一緒にチェンマイ、行きまへんか?」そう言って玉木は、ジッと郷戸の顔を見た。
 「こんなとこおったら、金ばっかりかかりまっせ。あんさん、金、持ってまんのかいな」
 「・・・」
 「考えることなんぞ有りまっかいな」玉木は背もたれから体を起こした。
 「そうだな」それも良かろう、と郷戸は思った。
 「よっしゃ、そうと決まったら、ワテも、こっちの用事、早めに片付けまっさ」



 「この部屋、自由に使うとくなはれ。それと、さっきのチンピラ連中な。あいつらには気い付けなはれや」玉木は声を低くして言った。
 「大丈夫だ」郷戸(ごうど)はメコンウィスキーにソーダを加えた。
 「あの銃はな、あれは、スミス&ウェッソンのMK22や。ベトナムでアメ公の特殊部隊がベトコン暗殺用に使うてる銃や」
 「アメリカの特殊部隊が?」
 「せや。アメ公共がベトナム戦線の休暇にぎょうさんこっち来てまんのや。そいつらが小遣い稼ぎに武器を持ち込んで密売しとるんや」玉木は、窓際に立って外の様子を眺めながら言った。

 「ちょうど1年前や、こっちの、なんとか言う首相がな、クーデター起こしよったんや。憲法廃止、議会解散、ってな訳や。本人が言うにはな、中国の文革(文化大革命)が怖い、言うとんのや」
 「へー」
 「何でかいうとな、こっちには何百万人かの中国人がおるしな、その中国人が、中国の手先になって、タイが共産主義化される言うねん。その共産主義化を防ぐには軍事政権しかない、ちゅう訳や」
 「で」
 「そこでや、これは、ワテの推量やがな、休暇で来てるアメ公が、こっちのヤクザに銃を密売しとんのを利用して、今の軍事政権は、タイやくざを市内監視の手先に使うとるんやないかと。ひょっとしたら、アメリカも絡んだ大掛かりな横流しルートがあるのかも知れへん。国絡みのな。」
 「なるほど」
 「せやないと、さっきのあんな特殊な暗殺用の銃があんなチンピラの手には入らへんで」玉木は、ドアのところまで行って振り返り、続けた。

 「せやから、郷戸はん、あんたにもしものことがあっても、闇から闇や。殺され損、ちゅうわけや。助けてもろたワテがこないなこと言うのもおかしな話やが、ゴタゴタには、手ェ、出さんこっちゃな。あとで晩飯食い直しまひょ。それまで、ゆっくりしといてな」そう言うと部屋を出て行った。



 翌日、郷戸(ごうど)は、昼前まで眠った。あれから玉木と向かいの屋台で食事をして、また、メコンウィスキーを飲んだ。疲れもあったのか、ぐっすりと眠った。
 ゆっくりとベッドで上半身を起こし、部屋を出て、廊下の突き当たりにあるシャワー室でシャワーを浴び、部屋に戻るとソファーの上に着替えが置いてあった。

 ペタ、ペタ、ペタと階段を上がる音がしてノックがあった。ドアを開けると、昨夜の屋台の少年だ。少年はタイ蕎麦(そば)をトレーに載せて立っていた。玉木か玉木の女房が頼んでくれたのだろう。屋台は15の少女と12の少年が切り盛りしている。郷戸は少年を部屋に招きいれ、ベッドを指さすと、少年はそこにトレーごと置いた。
 「ありがとう」そう日本語で言うと、少年は、ニコッ、と、微笑み、出て行った。
 外から姉弟で「キャハハ」と笑いあう声が行き交うバイクと車の音に混じって聞こえて来た。俺のことでも噂しているのだろう、と、郷戸は思って、何か月か振りに微笑(えみ)が漏れた。

 大木会の会長の指示で修道館大学へ乗り込んだが、結局、若の仇は打つことが出来なかった。チャカで始末をつけることは簡単だが、それは道義外れだ。学生達の力に負けたのだ。それで良いではないか。

 会としては、組織の県下統一の動きの前に力を誇示し、名前を売りたかったところだろうが、逆に面目丸つぶれになってしまった。大木会の面目を潰したのは、あの学生連中ではなく、それが出来るチャンスを潰した俺だという事になってしまった。
 会長なら分かってくれると思ったが、ベッドで半身不随の若の腹の虫が治まらなかったのだろう。俺を始末しないと、一家も束ねる力もない、と全国の暴力団の笑い草になる、若はいつも世間体を気にして動く奴だった。

 「若では会は束ねられない」郷戸は指を詰めるよりも姿をくらますことを選んだ。香港からバンコク、そして、マニラへ飛ぶつもりだった。
 「しかし、こいつはタイに長居しそうだな」郷戸は、蕎麦(そば)を啜(すす)りこみながら思った。



  蕎麦の皿とトレーを返そうと思って廊下に出て、階段のほうへ行くと隣の部屋のドアが開いていて、玉木が荷造りをしているのが見えた。すでに、白地に赤と青の縞模様の大きなバッグが3個パンパンに膨らんで部屋の隅に転がっていた。
 「ああ、郷戸(ごうど)はん、昨夜はどうもお疲れさんでしたな」玉木は額に垂れた髪をかき上げながら言った。
 「食器はそこらへんに置いときなはれ」
 「まあ、入りなはれ」そう言ってバッグを横にずらした。

 「ワテの用事も明日(あした)で終わるさかいに、明後日(あさって)の朝、早(はよ)うにこっちを発ちまひょか?どないだ?」ポケットからマルボロを取り出し郷戸にも勧めた。郷戸は手を振って断った。
 「そうだな。俺には特別用もないし、今日は夕方から街をぶらついてくる」
 「気ぃつけなはれや。ちょうど雨期は終わったさかいにスコールはありまへんけど、その分、チンピラと不良外人は街にあふれてまっさかいにな。くれぐれもごたごたに巻き込まれんようにしてや」
 「分かってる」
 「どうも、郷戸はん、あんさんには、火薬の臭いがしまっせ。導火線のついてない火薬の臭いや。火花にはすぐ反応しよる」



 日も暮れかかった頃、郷戸は部屋を出た。玉木はどうやらゲストハウスの2階部分を借り切っているようだ。ゲストハウスの1階は雑貨屋になっていて、店の前には、玉木の荷物だろう、段ボール箱や、木箱、ビニールのバッグがトラック一杯分くらい積み上げられている。荷物を掻き分けるように店の中に入って、サングラスと帽子を買った。

 サングラスをかけ、帽子を目深(まぶか)に被(かぶ)り、棒を杖のようにして、いくぶん足を引き摺るような格好で、ぶらぶらと歩き、大通りに向かった。大通りに近付くに従って様々な車のエンジン音やクラクションが大きくなる。角を曲がって、大通りに出た途端、バスやトゥクトゥク、バイクの洪水のような流れに視界が塞(ふさ)がれた。

  昨夜来た方向にしばらく歩くと、通りの向こうにムエタイのスタジアムが見える。
 郷戸はそこで2時間ほどムエタイの試合を観戦した。日本ではキックボクシングとして若者の人気を博し、郷戸も堅気(かたぎ)の頃は、剣道仲間と一緒に見るのを楽しみにしていたが、ここの場内の熱気はすごかった。
 郷戸(ごうど)は、ボクサーの首を抱え込んでの膝蹴(ひざげ)りの連続や、肘打(ひじう)ちなどにも破壊力を感じたが、それ以上に、鞭(むち)のようにしなる足技のスピードに驚いた。実際に闘うと木刀では勝てないかもしれないと思った。



 スタジアムを出るとすっかり日も暮れていた。外には観客目当ての屋台があちこちに出て、どの店も結構繁盛している。屋台で鶏肉焼きを2本食べ、帽子を目深(まぶか)に被(かぶ)りなおし、足を引き摺るふりをしながらながらゲストハウスに帰った。出るときにあった山のような荷物はトラックに積み込んであり、2階の窓から玉木が顔を出してタバコをふかしていた。
 
 「いま、お帰りでっか。どないでした散歩は?いま、鍵、開けまっさかいにな」そう言って顔を引っ込め、「ドン、ドン、ドン」と階段を下りて、「ガチャン」と鉄格子のドアを開けた。

 「せや、郷戸(ごうど)はん、あんさんに受け取ってもらいたいもんがあんねん」そう言って玉木の部屋のドアを開き、中に入った。
 「ま、おかけぇな」そう言って、ソファーの向きを郷戸の方にずらした。扉が開きっぱなしのクローゼットを手前にずらし、クローゼットの背中と壁の間から布に包まれたものを取り出した。

 「これや」布に何重にも巻きつけてある紐の結び目を苦労して解(ほど)き、クルクルッ、っと、紐をはずした。包みの中から一本の杖が出てきた。郷戸には、一目でそれが仕込み杖だと分かった。
 「仕込みか?」
 「せや。分かりまっか」ニヤッと笑い、玉木は右手でその仕込みの中程を握って郷戸の方へ差し出した。郷戸は左の手のひらを上にしてそれを受け取り、右手でポケットからハンカチを取り出して口にくわえ、左手に持った仕込を腰の辺りに持ってきて、右手で、クッ、と、少し手前に引き、スー、と右手を引いて鞘(さや)から刃を出した。やや、細身で肉厚の直刀(ちょくとう)であった。
 「これを俺に?」
 「はいな。差し上げまっさ」



 「あんた、どうしてこんなものを」見事な仕込だと思った。
 「買うたんや」ベッドに腰掛けて額の汗を拭いた。
 「買った?」郷戸は目を切先(きっさき)にやった。
 「せや、ワテは月に一回、チェンマイからこっちに買出しに来てまんねん。ま、その時に、女房を交替で2、3人ずつ観光につれて来てまんのやけどな」胸ポケットからマルボロの箱を取り出した。郷戸は、刃が煙るのを恐れ、手で制した。

 「たまに、現金が必要になった時には、ワテの鉄砲を売ったりして、金にしてまんねん」玉木は渋々箱をポケットに納めた。
 「あんたの鉄砲?」
 玉木はそれには答えず、
 「昨日も行ってきたとこや。ほら、郷戸はんと会うたとこの近くのチャイナタウン。あそこにはな、鉄砲横丁があってな、そこで売って、金にしてまんのや。いつやったか、いつも行ってるとこの親父(おやじ)がな、その親父は残留日本兵や」そういいながら、窓際に行き外を眺めた。
 「そんでな、その親父が、そん時は、逆にそれを買うてくれゆうてな。親父も、もう永うない、死ぬ前に一回日本の土が踏みたい、ゆうてな。そのためには金が要る、言いよってな」



 「その仕込み杖はな、辻政信(つじまさのぶ)の仕込み杖や」窓枠に背を預けて郷戸(ごうど)を見た。
 「辻!」郷戸は思わず声を出して玉木の顔を見た。
 「せや。辻はマレー作戦からシンガポール陥落までに関わった帝国陸軍の高級参謀や」玉木は郷戸が刀を鞘に納めるのを見て、ポケットからマルボロを取り出した。

 「衆議院の国会議員やったんやけどな、つい10年ほど前にこっちで行方不明になったんや」箱から1本取り出し口にくわえ火をつけた。
 「こっち言うても、ラオスやけどな。日本の現職国会議員が勝手に内戦中のラオスを歩いとった、言うんで大騒ぎになってな」そう言って、深く息を吸い、「フーッ」と、長く吐いた。
 「せやけど、その後は行方不明になってしもてな」玉木はソファーに再び腰をかけた。
 「フランスの特殊部隊に暗殺されたとか、CIAに殺(や)られたとか、共産ゲリラに殺られたとか、虎に喰われたとか、そらぁ、もう、いろんな噂がたってな」ベッドの上の灰皿を左手でつまみ膝の上に置いた。
 「今でも、どっかの国の軍事顧問におさまっとる、言う噂まであるんや」灰を、「ポン」と、ひとつ落とした。

 「その辻はな、終戦の時には、ここ、バンコクにおって、しばらくは潜伏するつもりで、形見(かたみ)分け、言うんかな、拳銃やら、軍刀やらを部下に分け与えたんや」
 「そのときのひとつがこれか」郷戸は改めて仕込み杖を眺めた。
 「せや。あの店の親父が、どうやってこれを手に入れたんかは、知らん。ひょっとして、直接貰ろたんかもしれへん」



 郷戸(ごうど)は立ち上がり、窓際に行ってバンコクの暗い空を見上げた。残留日本兵、旧日本軍の参謀、ベトナムから息抜きに来て羽目をはずしている若い兵士、戦争反対を唱えて漂流している若いヒッピー達、そして、俺のような無頼(ぶらい)。
 この街の叫び声は、全てを飲み込んで、また、吐き出している悲鳴かもしれない、と、郷戸は思った。

  通りの向こう側から5人の白人が、大声で歌を歌いながら、危ない足取りでやって来た。その中のひとり、赤毛を短く刈り上げた男は、ビールをビンから直接飲みながら仲間の肩に手を回し、今にも倒れそうな足取りだ。ガヤガヤと、姉弟(きょうだい)の屋台の椅子に腰をかけ、何やら注文しているようだ。同じテーブルでは、先客の白人の女がお粥(かゆ)を食べながら、足元の野良犬に自分の具を分け与えている。

 弟はいつものようにニコニコと注文を聞き、姉に伝え、姉の方は手馴れた手つきでお粥(かゆ)を作り始めた。姉弟(きょうだい)にしてみれば今夜最後の稼ぎになるのだろう、張り切っている様子が良く分かる。



  しばらくして弟は出来上がったお粥をテーブルに運んだ。男達は、犬のようにくんくんと鼻を近づけ臭いをかぎ、大げさに顔をゆがめた。それを見ていた姉弟(きょうだい)は、ちょっといやな顔をしたが、すぐに見ない振りをして食器を洗い始めた。

 赤毛男が、お粥(かゆ)をスプーンですくって口に運んだが、口に含んだまま、すぐに椅子から立ち上がり、道に、「ブアーッ」と、吐き出し大声で何かを叫んだ。他の男達は、その様子を見て、腹を抱えて笑い出した。吐き出した男はテーブルまで戻り、お粥を皿ごと通りにぶちまけた。それを見たほかの男達も、面白がって次々とお粥を皿ごと投げ始めた。姉弟(きょうだい)はその様子を悲しそうな顔をしながらただ静かに見る他に手立てはなかった。周りの屋台の人間達も関わり合いを恐れて何も出来ない。

 男達がそのまま椅子から立ち上がり、去ろうとした時、先ほどから忌々(いまいま)しそうにこの様子を見ていたカーリーヘアーの白人の女が、男達に何か言った。赤毛男が、ギラついた目で女を見返し、女の食べているお粥に、「ペッ」と、唾(つば)を吐き、再びヘラヘラと下卑(げび)た笑いを浮かべた。女は立ち上がってその唾を吐いた赤毛男の頬を平手打ちした。その様子を見ていた男達は「ヒャッ、ヒャッ」と笑い始めたが、殴られた赤毛男は、女の腕を掴(つか)み、ねじり上げて道に突き飛ばした。倒れた女を他の男達は卑猥(ひわい)な笑みを浮かべながら、女の頬を2、3度殴って抱え上げ、そのまま連れ去ろうとしている。



 玉木は、
 「ひどい事しよるなぁ、あいつら」そう言って郷戸の方を向いた。
 「あきまへんで、関わり合いになっ、・・・あ、郷戸はん・・・」
 そこまで玉木が言った時には、郷戸は仕込み杖を持ったまま、窓から飛び出し、トラックの屋根の上に、バーンッ、と、降り立っていた。
 「あー、もう、あかんちゅうたやろが・・・ほんまに・・・」玉木の言葉の最後は消えていた。

 男達は、女を抱えたまま郷戸を見上げた。郷戸はトラックの屋根から降り立ち、女を指差し、そのまま、指を下に向け、解放するように示した。男達はお互いの顔を見合わせ、
 「ハッ、ハッ、ハッ、ハッー」と大声で体を揺すって笑い始め、赤毛男は中指を郷戸の方に向けて上へ突きたて、歯茎(はぐき)を剥(む)き出しにして、まるでネズミを見るような目つきをして何やら言った。

 赤毛男のランニングシャツからはモジャモジャの胸毛がはみ出し、その毛は丸太のような腕にもビッシリと生えている。金髪の坊主頭の男は新しいゲームでも見つけたかのように、女を突き飛ばし、木の椅子を振りかぶった。赤毛男は、ズボンからバタフライナイフを取り出し、カシャカシャ、とナイフを開いたり、閉じたりとバタフライアクションを始めた。郷戸は、背中に隠れた女に、離れて見守っている姉弟(きょうだい)のところへ行くように手で示した。野良犬はテーブルの下でこぼれたお粥を食べている。



 男達は、これが勝ち目のない喧嘩だということに気が付いていない。今まで、アジア人と喧嘩をして負けたことなどないのだ。
 赤毛男は金髪の大男に目配せをして、ニヤニヤと笑いながら郷戸に近付いた時、郷戸は足元で、こぼれたお粥を食べている野良犬の尻尾を踏んだ。

 犬が「ギャンッ!!」と一声鳴いて飛び上がるのと、赤毛男が一歩足を踏み出してナイフを突き出すのが同時だった。赤毛男は、一筋の光が一瞬目の前を走ったように感じたが、鼻の先を切られたのにはまだ気が付いていない。金髪男は木の椅子を振り下ろそうとしたが、握っている椅子の足から上が男の頭の上に落ちてきた。その時、赤毛男の鼻の先から、「ボタ、ボタ、ボターッ」と血が垂れてきた。
 それでも、男達には何が起こったのか分からない。郷戸は、男が足を踏み出そうとした時、仕込み杖から再び刃を一閃させ、赤毛男の履いているゴム草履の鼻緒を切った。赤毛男は、踏ん張りが利かなくなって後へ大きく転んだ。



 ようやく、何が身に起こったのかを理解した赤毛男と金髪男は驚愕(きょうがく)の表情を浮かべたまま、他の男達と走り去った。

 パチパチパチッ、と周りの屋台から拍手がした。姉弟(きょうだい)も、何かを男達の背中に言うと周りの屋台からも笑い声が聞こえた。金髪女は、笑みを浮かべて郷戸に、「サンキュー」を連発している。
 
 「無茶したらあかんがな、郷戸はん」玉木はそう言いながらも顔は笑っていた。



 「それより、あの警察の兄ちゃんやがな。こないな時にこそ役に立たなあかんのに」ブツブツ言いながら部屋から出て、振り返り、
 「ほな、郷戸はんはゆっくり休みなはれ。」
 「あんたは?」
 「ちょっと、あの警察の兄ちゃんに何ぼか渡して、あいつらが仕返しに来ように頼んで来まっさ」
 「タイ語がしゃべれるのか?」
 「しゃべれへんけど、こないなこと、ようあることやさかいに、あの警察の兄ちゃんも心得てまっさ。それと、ワテは今晩、トラックの番をせなあかんさかいに、トラックで寝まっさ。ところで、どや、その仕込みの切れ味は?」そう言って、ニコッ、と笑った。
 
 翌朝、トラックに郷戸と玉木は乗り込み、玉木の雇ったドライバーが運転してタイ北部の都市、チェンマイに向かった。
 「あんたの奥さん達は?」
 「後ろの荷台の荷物の間に転がってまんがな」
 
 トラックがチェンマイに着いたのは12時間後であった。
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