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第38話 1889年(明治22年)7月、使節団を乗せた軍艦エルトゥールル号はイスタンブールを出航しました [ミステリー小説]

ヒッタイト人

 神田君はご存知だと思いますが、中国の歴史書の中で日本について書かれたものが、魏志倭人伝(ぎしわじんでん)と呼ばれている書物で、それと同じように、古代朝鮮について書かれたものが、魏志韓伝(ぎしかんでん)です。
 その韓伝の中に、朝鮮の古老の話として、秦国(しんこく)から多くの秦人(しんじん)が戦乱を逃れて朝鮮半島に流れ込んで来た、ということが書かれています。
 やがて彼らは、朝鮮半島に国を作りますが、彼らの一部はそのまま朝鮮半島に残り、そして、一部は玄界灘を渡って、この日本にやって来ました。
 もともと彼らを秦人(しんじん)と呼んでいたのは漢民族です。秦人(しんじん)と呼ばれていた彼らは、自らを秦人(しんじん)とは呼んでいませんでした。
 では、何と読んでいたのでしょうか?
 彼らは、自らを「ハタ」と呼んでいました。自らの出自に誇りを持って、遠い先祖の出身の地の名前を彼ら自身の呼び名としていたのです。

 もう、お分かりでしょう。3000年近く前に衰亡し始めた古代のヒッタイト帝国の首都ハットゥシャが彼らの出身地です。
 彼らは、何千年もの間にわたって移動を続け、ある時は何百年もある地域に留まり、そしてまた移動し、最終的には、この日本にやってきたのです。
 話が混乱するのは、中国人、つまり、漢人は、朝鮮半島へ逃げ込んだ人達は、自分たちと同じ秦国(しんこく)の人間ではないと知っていた事。
 それにもかかわらず、朝鮮半島では、秦国から逃れてきた秦(しん)人だと認識され、そのルーツまでは認識されていなかったこと。
 そして、逃げ込んだ人達自身は、自らの出自は秦(しん)ではなくハットゥシャ、ハタだと分かっていたこと。
 これらのことが、今現在も様々な混乱を招いているのだと思います。

 そして、朝鮮半島から、最先端の技術を携えてこの日本に渡ってきた彼らは、中国から直接海を渡ってやって来た徐福さんの一団と自らを判別し、独自性を保つために秦(しん)と書いて秦(はた)と呼ぶようになったのだろうと思います。

 中国でローマ帝国を表す文字は「大秦」です。つまり、中国では異民族のことを秦人と呼んでいたのです。当時、中国人つまり漢人は、中国以外の地域、長城の外からやって来た人達のことを秦人(しんじん)と呼んでいたのです。

 漢字のないハットゥシャから何千年もかけて移動してきたヒッタイトの人達は、自らを漢字文明圏に入ってきた時、秦(しん)と呼ばれているのを知り、その漢字に彼らの呼び名、ハットゥシャをあて、それはやがて、ハットゥ、ハット、ハタ、と変遷したのです。
  
 彼らは、この日本にやって来る途中、ある地域に何百年もとどまり、その地に都市や国を築きました。

 彼らの移動してきた経路にはそうした痕跡が地名に色濃く残っています。朝鮮半島の慶尚北道にはかつて波旦(はたん)と呼ばれた地域がありました。今の蔚珍郡(うるちんぐん)です。
 さらに遡(さかのぼ)ると、現在の中国、新疆(しんきょう)ウイグル自治区にはホータンという地域があります。

 ごめんなさい。話がどんどん逸(そ)れていっているようです。

 先ほども言ったように、オスマン・トルコは親書と勲章を明治天皇様にお贈くりするために日本に使節団を派遣したのですが、使節団にはもうひとつ、大きな使命があったのです。

 当時、鉄の棒の存在場所は熱田神宮のものしか確認されていませんでした。後の二本の鉄の棒の封印場所の特定は出来ていなかったのです。

 大きな使命とは、その存在の分かっている鉄の棒を入手することだったのです。

 すでに、内々にはその鉄の棒はオスマン・トルコに贈呈されることになっていましたので、親書と勲章の贈呈は、そのお礼と考えてもいいと思います。
 それは、もうじき来る、オスマン・トルコ建国600年を盛大に迎えるために、また、民族の更なる統一と諸外国との友好を図るために最も必要なものでした。
 なぜなら、オスマン・トルコの偉大なる最後の末裔(まつえい)、弁慶の命が封印されている鉄の矢だからです。

 

 「弁慶がヒッタイト人の末裔だってことか!?」

 先日もお話したように、弁慶の祖先は、今の日本人の原型である弥生人(やよいじん)がやって来る前に、既に日本で鉄を製造する技術を持つ一団として生活圏を築いていたのです。 
 彼らは後に「正史」の中では、猿田彦命(さるたひこのみこと)と呼ばれ、やがて、毘沙門天(びしゃもんてん)としても祀(まつ)られるようになり、伝説の中では、烏(からす)や天狗として、今に伝えられているのです。

 「咲姫ちゃんは、やはり毘沙門天(びしゃもんてん)のことに気がついていたのか」
 神田は、今、宮島に烏(からす)や天狗にまつわる話が多く伝えられ、そして毘沙門天が弥山頂上に祀られている理由が分かった。
 
 トルコは、ヒッタイト時代から格闘技の盛んなところです。 そして、格闘技に強い男こそが尊敬され、男として認められるといっても過言ではないでしょう。現代でもトルコで伝統的なスポーツといえば、体中にオリーブオイルを塗って闘うオイルレスリングです。

 「オイルレスリング!!」
 神田はその文字を見て、瞬間的に、あの嵐の日の大男の体の、ヌルッ、とした感触を思い出した。

 「あの大男はトルコ人だったのか!!」神田は思わず口に出した。

 神田は、去年のアテネオリンピックを前に、浜口京子や吉田沙保里の女子選手が来日中のオイルレスリングの競技を観戦した、という新聞記事を読んだことを思い出した。

 「しかし、あんな窃盗を働く必要は全くないじゃないか。中国人のように、それこそ外交ルートを通じて話を持ってくれば済むことだし、日本政府としても、おそらく、鉄の棒にさしたる重要性は感じていないだろう。ひょっとすると、残り二本の存在さえ知らないかもしれない。なのに、何故・・・」

 神田は、モニターの画面をスクロールさせて、咲姫(さき)の文章を追った。

 どうして忍び込んでまでしてその鉄の棒を手に入れようとしたのか。それは、日本とは外交ルートのない組織だからです。

 「すると、奴は、あの大男はトルコ人ではないということか!いったいどこの?」

 1889年(明治22年)7月、使節団を乗せた軍艦エルトゥールル号はイスタンブールを出航しました。乗組員は600名を越していました。
 スエズ、ボンベイ、シンガポール、香港を経由して、およそ11ヶ月の大航海でした。木造の古い軍艦のため、途中トラブルもあったようです。そのため日数がかかってしまったのです。
 
 このことは、やがてエルトゥールル号に襲いかかる悲劇を暗示していたのかもしれません。

 神田は、
 「ああ、あのエルトゥールル号か」と今、分かった。

 無事に任務を果たした使節団は、台風時期に無理を押して帰路に着き、途中和歌山県串本沖で岩礁に衝突、特使を含む518名が死亡という大惨事となりました。

 しかし、その時の地元民の救護活動で69名は死を免れ、手厚い看護の後、明治天皇様の命でトルコに送られたのです。
 皮肉なことに、この惨事が、その後の日本とトルコの友好関係をますます固いものにしたのです。

 神田(かみた)は、1985年の湾岸戦争のとき、イランのテヘラン空港で、国外脱出のために救援機を待つ日本人215名を迎えに来たのは、日本の飛行機ではなく、2機のトルコ航空の飛行機だったと言う話を聞いたことがある。それは、エルトゥールル号の事故に際しての日本人の献身的な救助活動への「恩返し」として当然のことだと、トルコ大使が語っていたのを思い出した。そして、トルコでは、小学生でもこの悲劇的な事故のことは知っていると聞いたことがある。

 咲姫のメールはさらに続いた。

 しかしこの時、大きな問題が起こりました。明治天皇様が、前言を翻(ひるがえ)され、鉄の棒は日本に留め置きたいと仰(おお)せになられたのです。

 「この日本の安泰が何百年もの間保たれてきたのは、鉄の棒を封印していたからこそである。鉄の棒は再び熱田神宮にお祀(まつ)りせよ」と、勅命が下されたのです。
 「この嵐は、天照大御神(あまてるおおみのかみ)様の御心(みこころ)の表れである」と。

 しかし、オスマン・トルコの皇帝アブドゥルハミド2世は、再び親書を天皇様にお贈りになり、何度かの交渉の結果、妥協案が生み出されたのです。ここに至までには、皇室の儀式、しきたりの一切を取り仕切る、八咫烏(やたがらす、やたのからす)と呼ばれる一族のとりなしがあったのですが、今日は、これには触れません。

 「妥協案?」神田は、さらに先に目を移した。
 


 その妥協案とは、ヒッタイト民族と日本民族の分水嶺(ぶんすいれい)でもあり、また、日本民族、日本文化の源流と言われる、ヒマラヤを中心にした地にその鉄の棒をお祀りすることだったのです。

 「ヒマラヤ!」

 そして、エルトゥールル号の悲劇を免れた乗組員をオスマントルコへ送り届けるために、当時の日本の主力軍艦の「比叡(ひえい)」と「金剛(こんごう)」を派遣することが閣議決定されました。

 その戦艦「比叡」に、総理大臣、山縣有朋の密命により、ひとりの人物が乗船しました。彼は、イスタンブールへ向かう途中、インドのボンベイで下船し、ヒマラヤを目指したのです。オスマントルコから派遣され、辛くも悲劇から免れた軍人の一人も一緒でした。

 彼らの任務とは、ヒマラヤ山地奥深くの寺院に「鉄の棒」をお祀(まつ)りすることにあったのです。

 まず、彼らが目指したのは、ネパール王国のパタンです。パタンは、今でも、金属製品製造の盛んな街です。

 「パタン!ネパールにもパタンが・・・」
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