第37話 日本人の祖先がこの日本列島にやって来る以前に、縄文人と言われる集団を筆頭に、何度かに分けて民族の集団がやってきました [ミステリー小説]
八頭神社(はっとうじんじゃ)
12月に入って、年末、年始の行事の打ち合わせの会議などで忙しく過ごしていたある日、咲姫(さき)からメールが届いた。
宮島観光推進協会 神田様
木野花咲姫です。
ご無沙汰をしています。今年もあとわずかとなりましたが、お元気ですか?
神田君も観光地の観光協会に勤務しておられると、これからがお忙しい時期になると思いますが、お体ご自愛下さい。
私も、八頭神社(はっとうじんじゃ)の宮司として、これからは忙しい時期に入ります。
ところで、熱田神宮に「鉄の棒」の三本目が隠されているのではないかという、私たちの推理を確認するために、私のルートを手繰(たぐ)って調べました。
「鉄の棒」の存在は、ごく限られた人達しか知らず、その存在の確認に時間がかかってしまいましたが、結論から言うと、「あった」という過去形でご報告しなければなりません。
その存在は国家機密で、草薙の剣(くさなぎのつるぎ)と同等の取り扱いを受け、禁足地(きんそくち)に祀(まつ)られていたようです。
でも、明治に入って、ある国と友好条約を締結するにあたって、その鉄の棒は国外へ持ち出されたようです。時の内閣総理大臣の山縣有朋(やまがたありとも)の奏上(そうじょう)によって、明治天皇様も、この持ち出しをお許しになられたということです。
「今はもうない、ということは、三本あった鉄の棒は、全てなくなってしまったということになるのか」
「ある国とはどこなんだ?」
明治20年(1887年)に、小松宮彰仁親王(こまつのみやあきひとしんのう)様がその国を訪問され、大変な厚遇(こうぐう)をお受けになられ、明治天皇様は、それに対し、礼状、漆器(しっき)、勲章を贈呈されました。
これに対して、その国も明治天皇様に親書と勲章を贈呈されるために日本に使節団を派遣し、明治天皇様に謁見を求められました。
最終的には条約の締結には時間の猶予が必要だったのですが、この時の両国の相互訪問が、お互いの信頼関係の樹立に大きく役立ったようです。
その、信頼関係の樹立を確固たるものにしたのが、「鉄の棒」だったのです。
「その国」とは当時のオスマン・トルコ、今のトルコ共和国です。
「トルコ?」
どうして、トルコが、という神田君の顔が思い浮かびます。
「ふふ、図星だな」神田は苦笑いした。
その理由を説明する前に、私がご奉仕させて頂いている八頭神社(はっとうじんじゃ)様についてお話しておきます。
「八頭神社(はっとうじんじゃ)が何の関係があるんだろう」と神田は思った。
しかし、この数分後には、神田は、八頭神社(はっとうじんじゃ)こそは鉄の棒とトルコを結びつける重要な神社であることを知り、そして、今までの、全ての謎を解く手掛かりは、この八頭神社(はっとうじんじゃ)にあることに歴史の因縁を感じ、体が震えることになる。
この前、廿日市駅前の「おとみ」でいろいろと推理をした中で、このことを言いかけたままになっていました。確信が持てなかったのです。でも、今は、確信を持ってお話できます。
私は、八頭神社(はっとうじんじゃ)の起源は、その字から、八つの頭、つまり、八岐大蛇(やまたのおろち)にあるのではないかと考えていました。つまり、「八頭蛇(はとうじゃ)」ではないかと。
神田は、高見刑事と八頭神社を捜している時、地元の人は「はっとうしゃさん」と呼んでいたことを思い出した。
実は、逆だったのです。
まず最初に「はっとうしゃ」があって、それが「八頭蛇(はっとうじゃ)」になり、やがて「八岐大蛇(やまたのおろち)」伝説が生まれたのです。
「はっとうしゃ」と「八岐大蛇(やまたのおろち)」の間に共通するものに気が付いた時、私は、真空の暗闇に吸い込まれていくような、そんな感覚に捉(とら)われました。
八頭神社を親しみを込めて「はっとうしゃ」と呼んだのではなく、最初から「はっとうしゃ」だったのです。
神田は、
「どういう意味だろう」と思った。
熱田神宮に祀(まつ)られていた鉄の棒が、明治になって、オスマン・トルコに贈られることになった経緯(いきさつ)には数千年の歴史の因縁があったのです。
私は、トルコと聞いて、喉につかえていたものがスッキリと取れました。
「はっとうしゃ」は「ハットゥシャ」だったのです。「ハットゥシャ」は古代ヒッタイト帝国の首都の名前です。
ご存知でしょうか?ヒッタイト帝国は人類で最初に鉄を作り出した国です。
「鉄!!」
現代の日本人の祖先がこの日本列島にやって来る以前に、縄文人と言われる集団を筆頭に、何度かに分けて民族の集団がやってきましたが、それらの中に、製鉄技術を持った民族の一団がいました。
私は、その集団こそは、何千年もかけてこの日本にやって来たヒッタイト人の末裔(まつえい)だと思います。こんなことを言うと、神田君は、御伽噺(おとぎばなし)のように思うかもしれませんね。
でも、その証拠は中国にも朝鮮半島にも、そしてこの日本にもあるのです。詳しいことは、今度お会いした時にお話しますが、今日は簡単にそのことをお話します。
日本の歴史を陰で支えてきた渡来人の一団に秦(はた)氏がいます。今では、秦(はた)、羽田(はだ)、畑、波田、八田(はった)、服部(はっとり)などという名前に変わっていますが、この人達のご先祖様は秦(はた)氏の末裔(まつえい)だといえます。
元首相の羽田孜(はたつとむ)さんや、篳篥(ひちりき)の奏者の東儀秀樹(とうぎひでき)さんも秦氏の子孫です。服部半蔵(はっとりはんぞう)率いる伊賀の忍者集団もそうです。
羽田さんは、日本徐福会(にほんじょふくかい)の名誉会長でもあります。ご存知かどうか、私の住んでいる地域は、昔、徐福さんが数千人を引き連れて中国からやってきて居を構えた所でもあるんですよ。
神田は、富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)の宮司が言っていた富士文献のことを思い出した。
徐福さんのことは、中国の『史記』にも書かれています。1982年、中国の江蘇省連雲港市(こうそしょうれんうんこうし)で徐福村が発見され、徐福が実在の人物として学術研究会で発表されるようになりました。徐福村には祠(ほこら)も再建され、その内部には東方を向いた、りりしい徐福の座像がまつられているそうです。
私は、秦氏一族と徐福さん一族は同じ一族だと考えています。その違いは、日本へ渡ってきた経路によるものではないかと思っているのです。秦氏一族は朝鮮半島経由で、徐福さん一族は船で中国から直接この日本へ渡ってきたのだろうと思います。
秦氏と徐福さんが連れてきた集団は、先端技術を持ったハイテク集団でした。
その先端技術の中のひとつが、製鉄技術や、製糸技術です。機織(はたおり)のハタから秦(はた)氏と呼ばれるようになったとも言われるくらいです。
ちなみに、富士山頂の富士山本宮浅間大社奥宮の御祭神の木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)は火の神、水の神であると共に、機織(はたおり)の神でもあります。
ここで疑問が残ります。秦(しん)と書いて何故秦(はた)と読ませるのか。
ところで、神田君にはご親戚はたくさんいらっしゃいますか?
神田は、
「また、何を言い出すんだろう」と思った。
叔父さんや、叔母さんから電話がかかってきて、その電話を取り次ぐのに、「神田から電話」とは言わないでしょう。それだと、どの叔父さんか、どの叔母さんか分からないですからね。
おそらく、その叔父さんが住んでいらっしゃる地名を言うのじゃないかしら。例えば「神戸から電話」と言えば、それだけでどの叔父かわかるでしょう。それは昔からそうです。
ここに、秦(しん)を秦(はた)と読ませる秘密が隠されているのです。
12月に入って、年末、年始の行事の打ち合わせの会議などで忙しく過ごしていたある日、咲姫(さき)からメールが届いた。
宮島観光推進協会 神田様
木野花咲姫です。
ご無沙汰をしています。今年もあとわずかとなりましたが、お元気ですか?
神田君も観光地の観光協会に勤務しておられると、これからがお忙しい時期になると思いますが、お体ご自愛下さい。
私も、八頭神社(はっとうじんじゃ)の宮司として、これからは忙しい時期に入ります。
ところで、熱田神宮に「鉄の棒」の三本目が隠されているのではないかという、私たちの推理を確認するために、私のルートを手繰(たぐ)って調べました。
「鉄の棒」の存在は、ごく限られた人達しか知らず、その存在の確認に時間がかかってしまいましたが、結論から言うと、「あった」という過去形でご報告しなければなりません。
その存在は国家機密で、草薙の剣(くさなぎのつるぎ)と同等の取り扱いを受け、禁足地(きんそくち)に祀(まつ)られていたようです。
でも、明治に入って、ある国と友好条約を締結するにあたって、その鉄の棒は国外へ持ち出されたようです。時の内閣総理大臣の山縣有朋(やまがたありとも)の奏上(そうじょう)によって、明治天皇様も、この持ち出しをお許しになられたということです。
「今はもうない、ということは、三本あった鉄の棒は、全てなくなってしまったということになるのか」
「ある国とはどこなんだ?」
明治20年(1887年)に、小松宮彰仁親王(こまつのみやあきひとしんのう)様がその国を訪問され、大変な厚遇(こうぐう)をお受けになられ、明治天皇様は、それに対し、礼状、漆器(しっき)、勲章を贈呈されました。
これに対して、その国も明治天皇様に親書と勲章を贈呈されるために日本に使節団を派遣し、明治天皇様に謁見を求められました。
最終的には条約の締結には時間の猶予が必要だったのですが、この時の両国の相互訪問が、お互いの信頼関係の樹立に大きく役立ったようです。
その、信頼関係の樹立を確固たるものにしたのが、「鉄の棒」だったのです。
「その国」とは当時のオスマン・トルコ、今のトルコ共和国です。
「トルコ?」
どうして、トルコが、という神田君の顔が思い浮かびます。
「ふふ、図星だな」神田は苦笑いした。
その理由を説明する前に、私がご奉仕させて頂いている八頭神社(はっとうじんじゃ)様についてお話しておきます。
「八頭神社(はっとうじんじゃ)が何の関係があるんだろう」と神田は思った。
しかし、この数分後には、神田は、八頭神社(はっとうじんじゃ)こそは鉄の棒とトルコを結びつける重要な神社であることを知り、そして、今までの、全ての謎を解く手掛かりは、この八頭神社(はっとうじんじゃ)にあることに歴史の因縁を感じ、体が震えることになる。
この前、廿日市駅前の「おとみ」でいろいろと推理をした中で、このことを言いかけたままになっていました。確信が持てなかったのです。でも、今は、確信を持ってお話できます。
私は、八頭神社(はっとうじんじゃ)の起源は、その字から、八つの頭、つまり、八岐大蛇(やまたのおろち)にあるのではないかと考えていました。つまり、「八頭蛇(はとうじゃ)」ではないかと。
神田は、高見刑事と八頭神社を捜している時、地元の人は「はっとうしゃさん」と呼んでいたことを思い出した。
実は、逆だったのです。
まず最初に「はっとうしゃ」があって、それが「八頭蛇(はっとうじゃ)」になり、やがて「八岐大蛇(やまたのおろち)」伝説が生まれたのです。
「はっとうしゃ」と「八岐大蛇(やまたのおろち)」の間に共通するものに気が付いた時、私は、真空の暗闇に吸い込まれていくような、そんな感覚に捉(とら)われました。
八頭神社を親しみを込めて「はっとうしゃ」と呼んだのではなく、最初から「はっとうしゃ」だったのです。
神田は、
「どういう意味だろう」と思った。
熱田神宮に祀(まつ)られていた鉄の棒が、明治になって、オスマン・トルコに贈られることになった経緯(いきさつ)には数千年の歴史の因縁があったのです。
私は、トルコと聞いて、喉につかえていたものがスッキリと取れました。
「はっとうしゃ」は「ハットゥシャ」だったのです。「ハットゥシャ」は古代ヒッタイト帝国の首都の名前です。
ご存知でしょうか?ヒッタイト帝国は人類で最初に鉄を作り出した国です。
「鉄!!」
現代の日本人の祖先がこの日本列島にやって来る以前に、縄文人と言われる集団を筆頭に、何度かに分けて民族の集団がやってきましたが、それらの中に、製鉄技術を持った民族の一団がいました。
私は、その集団こそは、何千年もかけてこの日本にやって来たヒッタイト人の末裔(まつえい)だと思います。こんなことを言うと、神田君は、御伽噺(おとぎばなし)のように思うかもしれませんね。
でも、その証拠は中国にも朝鮮半島にも、そしてこの日本にもあるのです。詳しいことは、今度お会いした時にお話しますが、今日は簡単にそのことをお話します。
日本の歴史を陰で支えてきた渡来人の一団に秦(はた)氏がいます。今では、秦(はた)、羽田(はだ)、畑、波田、八田(はった)、服部(はっとり)などという名前に変わっていますが、この人達のご先祖様は秦(はた)氏の末裔(まつえい)だといえます。
元首相の羽田孜(はたつとむ)さんや、篳篥(ひちりき)の奏者の東儀秀樹(とうぎひでき)さんも秦氏の子孫です。服部半蔵(はっとりはんぞう)率いる伊賀の忍者集団もそうです。
羽田さんは、日本徐福会(にほんじょふくかい)の名誉会長でもあります。ご存知かどうか、私の住んでいる地域は、昔、徐福さんが数千人を引き連れて中国からやってきて居を構えた所でもあるんですよ。
神田は、富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)の宮司が言っていた富士文献のことを思い出した。
徐福さんのことは、中国の『史記』にも書かれています。1982年、中国の江蘇省連雲港市(こうそしょうれんうんこうし)で徐福村が発見され、徐福が実在の人物として学術研究会で発表されるようになりました。徐福村には祠(ほこら)も再建され、その内部には東方を向いた、りりしい徐福の座像がまつられているそうです。
私は、秦氏一族と徐福さん一族は同じ一族だと考えています。その違いは、日本へ渡ってきた経路によるものではないかと思っているのです。秦氏一族は朝鮮半島経由で、徐福さん一族は船で中国から直接この日本へ渡ってきたのだろうと思います。
秦氏と徐福さんが連れてきた集団は、先端技術を持ったハイテク集団でした。
その先端技術の中のひとつが、製鉄技術や、製糸技術です。機織(はたおり)のハタから秦(はた)氏と呼ばれるようになったとも言われるくらいです。
ちなみに、富士山頂の富士山本宮浅間大社奥宮の御祭神の木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)は火の神、水の神であると共に、機織(はたおり)の神でもあります。
ここで疑問が残ります。秦(しん)と書いて何故秦(はた)と読ませるのか。
ところで、神田君にはご親戚はたくさんいらっしゃいますか?
神田は、
「また、何を言い出すんだろう」と思った。
叔父さんや、叔母さんから電話がかかってきて、その電話を取り次ぐのに、「神田から電話」とは言わないでしょう。それだと、どの叔父さんか、どの叔母さんか分からないですからね。
おそらく、その叔父さんが住んでいらっしゃる地名を言うのじゃないかしら。例えば「神戸から電話」と言えば、それだけでどの叔父かわかるでしょう。それは昔からそうです。
ここに、秦(しん)を秦(はた)と読ませる秘密が隠されているのです。
はじめまして。ようやく春らしくなってきましたね。体調を崩しやすい季節ですから気をつけてくださいね。
by 代官山 美容室 (2011-03-28 10:31)