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第20話 青い空は宮島からネパールへ [ミステリー小説]

 2005年(平成17年)9月  広島・宮島 

 この台風14号は多くの被害を残した。美しい弥山(みせん)の山肌には無残な傷を残し、今日も、県や国の調査団が現地調査に入っている。麓(ふもと)にある宮島最古の寺院である大聖院(だいしょういん)も大きな被害を受けた。
  しかし、その自然の猛威は歴史の皮を剥(は)ぎ取りつつあるのではないだろうか?

 錦帯橋(きんたいきょう)も今回の台風14号で橋脚を流されてしまい、渡ることは出来ないが、
 「せっかく、宮島まで来たのだから、一部でもその美しいブリッジが見たい」というキャシーの希望で、先姫(さき)とキャシーはJRで岩国へ向かった。
 「しかし、どうだろうか、橋脚のない錦帯橋を見てかえって、ガッカリするんじゃないだろうか」と思いながら事務机に向かった。

 宮島で発見された鉄の棒は何者かに奪われ、そしてまた、同じものが富士山頂でも、神田(かみた)達の目の前で、ここ、宮島に現れた同じ男に奪われた。一体、何が起こっているのだろうか?それに、その鉄の棒を中国が欲しがっているのは何故なんだろう。

 しかも、咲姫(さき)によると、同じものがもう1つどこかにあるというではないか。あるとすればどこにあるんだろう?



 テレビや、新聞などのマスコミの取材は落ち着いてきたが、依然として旅行会社や観光客からの問い合わせは多い。
 午後からは電話の応対や、報告書の作成に追われ、気がつくと6時をまわっていた。

 「ふーっ」と大きく背伸びをして椅子から立ち上がり、コーヒーを飲もうとコーヒーサーバーに向かったとき、机の上においていた携帯が「カタカタカタ」と机を鳴らした。携帯を開くと、咲姫(さき)からであった。

 「やあ、錦帯橋はどうだった?」
 「ええ、見るのが辛(つら)くなったわ。それよりも神田君、キャシーが変なことを言うのよ」
 「変なこと?」
 「そう、電車が県境に流れる小瀬川(おぜがわ)をわたる時、さあ、これから山口よ、と言ったら、キャシーが不思議そうな顔をするのよ」咲姫は押し殺したような声で言った。
 「不思議そうな顔?どういうことだい」携帯に応えながらコーヒーサーバーへ向かった。
 「錦帯橋は岩国(いわくに)シティーにあるんじゃないの?って聞くのよ」
 「あー、俺たちは、岩国の錦帯橋、って言うからね。山口の錦帯橋とは言わないよね」コーヒーをカップに注いだ。

 「そう。それで、岩国は山口県の1つのシティーなのよ、って言うと、山口というシティーは他にもあるのかって」咲姫(さき)の声は、ますます低くなった。
 「へー、それで?」来客用の椅子に腰掛け背中を背もたれに預けた。
 「だから、私は、あるかも知れないけど、あまり聞かないわね、って言ったら、じゃあ、人の名前の山口も珍しいか、って聞くのよ」

 「山口!?」神田はカップから口を離した。
 「そう。だから、山口という名前の人はたくさんいるわ、って言ったんだけど、そしたら、山口という日本人を知っている、って言うのよ。それが、・・・」

 「・・・それが?」
 「それが、神田(かみた)さんと同じように拳法のマスターだ、って言うのよ」
 「ええっ!?・・・そ、 それで?」神田は椅子から立ち上がった。
 「それが、それっきり、ふさぎこんで何も言わなくなって」
 「まさか、山口さんのことじゃ?」声が震えた。
 「私、嫌な予感がして、それ以上聞くのが怖くて・・・」
 「嫌な予感って・・・」神田は咲姫の感の鋭さが怖かった。
 


 「で、今どこなんだい?」一体どういうことなんだろう?神田(かみた)は、心臓の鼓動が早まるのを感じた。
 「今、広島駅のホテルでチェックインを済ませたところよ」
 「キャシーの様子は?」神田は恐る恐る聞いた。
 「今は普段のように陽気よ。だけど、今度は私のほうが、山口って人のことが気になって・・・」咲姫の声は沈んでいる。
 「そうだね。俺も気になるな」
 「ねえ、どこか落ち着いた日本料理屋さんで今夜、食事一緒に出来ないかしら?」
 神田の頭に廿日市(はつかいち)の「おとみ」が浮かんだ。料理もおいしいし、あそこなら落ち着いて話しが出来る。

 「じゃあ、JRの廿日市駅(はつかいちえき)で待ち合わせしよう。広島駅からだと20分くらいだから」
 「分かったわ。廿日市(はつかいち)なら知ってるし」



 廿日市の駅前商店街を海のほうへ向かって少し歩き、左の暗い小路にはいると、薄明かりが縄のれんを通して漏れていた。
 「へー、ちょっと雰囲気があるわね」と言いながら、咲姫(さき)は、
 「そこ、階段があるから気をつけてね」とキャシーの手をとった。

 神田は、縄のれんを上げ、「ゴロゴロッ」、と引き戸を開けて咲姫とキャシーを先に店内に入れ、神田もふたりに続いて入った。

 「いらっしゃいませ、神田さん。どうぞ、奥の座敷がとってありますから」女将(おかみ)が先にたって案内してくれた。
 咲姫(さき)とキャシーは珍しそうに店内を眺めている。咲姫(さき)はカウンターの中の神棚をチラッと見た。

 「こりゃー、神田のだんな。引き続きでありがとうござんす」
 「ござんす?」咲姫は「?」という顔をして神田を見たが、神田は、それには気付かない振りをして、
 「急にお願いしてすみませんでした」と、左手を軽く上げて挨拶した。
 「とんでもねえ。ありがとうござんす」カウンターの中で、鉄は深く頭を下げた。



 「キャシーさんは椅子の方がよかったかな?」神田(かみた)は座敷に上がりかけて、キャシーを見た。
 「大丈夫です。問題ありません。私、こういうジャパニーズスタイル大好きです」そう言いながら、さっ、と座敷に上がり、座布団の上に胡坐(あぐら)をかいた。

 「そうですか。それは良かった」神田も座布団に座り、咲姫のほうを向いて、
 「咲姫(さき)ちゃん、ビール?お酒?」
 「そうね。キャシー、お酒飲む?」咲姫はキャシーに聞いた。
 キャシーはうれしそうに、
 「はい。お酒、ロックでいただきます」と、ニコッと笑って咲姫の顔を見た。
 「じゃあ、俺も久しぶりにロックでいただこう」

 「出雲(いずも)のお酒があるんじゃない?」咲姫は、壁に貼られた品書きを見ながら言った。
 「え?どうして出雲の酒があるって?」神田は驚いて咲姫の顔を見た。
 「ふふふ。忘れたの?私は宮司なのよ。神棚を見れば分かるわよ」
 「そうかぁ、そうだったね」神田はそう言うと、座ったまま振り返って神棚のほうを見た。
 「ここのご主人は出雲のご出身じゃないかしら」咲姫はそう言いながらカウンターの中にいる鉄を見た。



 「女将(おかみ)さん、お酒、ロックでお願いします」神田はオシボリを持ってきた女将に注文した。
 「はい。承知いたしました」

 「何を食べる?」
 「そうねえ・・・」そう言いながら、壁に貼られた読めない漢字で書かれた品書きを眺(なが)めていたが、
 「キャシーと私は、・・・青菜の煮浸し、湯葉の納豆包み揚げ、と、海老いもの煮物、それに、しめじと長いもの和え物もおいしそうね。あとで、なすとみょうがのすまし汁と炊き込みご飯も頂こうかしら」そう言うと、神田を見て、
 「神田君は?」と、咲姫から聞かれ、「え?読めるのか」と少し慌(あわ)てて、
 「あ、お、俺?・・・俺は・・・俺はここではいつもコースで頂くんだ」
 「あら、そうなの。じゃあ、私たちもそうするわ」そう言って、キャシーに「それでいいわね」という風に小首を傾げて見せた。キャシーは両手を広げ、首をすくめ、
 「もちろん、OKです」と笑いながら言った。



 「キャシーさん、錦帯橋(きんたいきょう)はどうでしたか?」神田(かみた)はオシボリで手を拭きながらキャシーに聞いた。
 「オー、ベリービューティフルでした。でも、少し壊れていたのは残念です」キャシーはとても残念そうに表情を曇らせた。
 「そうね。ちょっと悲惨だったわね。でも、激流の中で必死に耐えている姿は、ある意味見る者の心に訴えるものがあったわ。ね、キャシー?」そう言いながら、キャシーの手を軽く握った。
 「はい。見る人に勇気与えていると思います」
 「そうですか。そういう見方もありますね。ところで、キャシーさん・・・」そう言って、咲姫(さき)をチラッ、と見た。咲姫はその言葉を継いで、
 「キャシー、キャシーは神田さんのような拳法のマスターを知っているって言ったわね」やさしくキャシーの右手の上に手を重ねて尋ねた。

 「・・・はい」キャシーは少しうつむき加減になった。
 「その山口さんってどんな人だったの?実は、その人は、私たちの学生時代のフレンドかもしれないのよ」咲姫がやさしく、ゆっくりと言うと、キャシーは顔を上げた。その青い瞳には既に涙が浮かんでいた。



 「お友達?」キャシーは首に下げたロケットを握り締め、咲姫と神田の顔を交互に見た。
 「そう。だから、辛(つら)いかもしれないけど、話してくれないかしら?」

 しばらくの沈黙の後、キャシーは握り締めていたロケットのフタを開け、中から白い小石のようなものを取り出し、右手のひらに載せ、再び強く握り締め、嗚咽(おえつ)を漏らし始めた。
 「ごめんなさいね、キャシー。辛いことを思い出させて」咲姫はキャシーの肩に手を回し、神田と咲姫は顔を見合わせた。

 しばらくして、落ち着きを取り戻したキャシーは、その握り締めた手のひらを開き、
 「これは、山口さんの小指の骨です」そう言ってその白い小石のようなものをテーブルの上に置いた。
 「小指の骨?」神田は、それをそっとつまんで持ち、
 「どういうことなんでしょう?」と、キャシーに恐るおそる尋ねた。
キャシーはそれには答えず、バッグの中から黒いものを取り出した。

 「!!」神田はすぐにそれが山口の黒帯だと気がついた。帯の端には「広島修道館大学 山口」と刺繍されていた。 
 「こ、これは?」神田は震える手でその黒帯を受け取った。
 「山口さんの黒帯です」キャシーの瞳から大粒の涙がひと粒、ぽたり、とテーブルに落ちた。

 「どうしてこれを?」黒帯には血の跡が大きく残っていた。
 「山口さんが大切にしていた持ち物です」
 「これは咲姫のお友達のものですか?」キャシーは顔を咲姫に向けた。咲姫は目を閉じ、静かにうなづいた。
 そして、神田も、
 「間違いない」両手で黒帯を握り締めながらキャシーを見た。
 「山口さんのものだ」そう言うと再び黒帯を見つめた。
 「じゃあ、さっきの骨は?」咲姫は神田を見た。
 「山口さんの!?」
 神田の顔は動揺で紅潮していた。
 「山口さんはどうしたの?」咲姫はキャシーの肩に手をかけたまま聞いた。
 「山口さんは亡くなりました」
 「えっ、どこで?」神田にはとても信じられなかった。悪夢ではないのだろうか。
 神田の問いにキャシーは答えた。
 「ネパールです」キャシーの瞳には、ネパールの青い空が映っているようだった。

第19話 インドのアーユルベーダ、チベット医学、漢方。これらを私なりに融合したものです [ミステリー小説]

 「山口さんが私のやっていることに手を貸してくださるのは大変ありがたいことです。和司も喜ぶと思います。でも、私のやっていることは、アジアのある国々にとっては都合の悪いことです。ひょっとすると山口さん・・・」江下はここで言葉を切り、
 「あなたの命に関わることになるかもしれません」再び、江下(えげ)は山口の目をジッと見つめて言った。

 山口には、江下の言う意味が分かるような気がした。国家にとって都合の悪い動きをする人間や組織は、たとえ自国民であろうとも、国家内の組織であろうとも潰(つぶ)されるのが歴史だ。歴史の光には常に陰が付きまとう。そして、いつも犠牲になるのは無垢(むく)の民衆だ。
 山口自身も、これまで陰の中を歩いてきた。いまさら、陰を怖がるよりも、陰の中に一撃でも拳(こぶし)を打ち込むことが出来れば良いではないか。そう思い右の拳をギリギリと握り締めた。


 山口大河(やまぐちたいが)は覚悟を決めた。
 「で、その薬品をどこへ届ければ?」
 「私のシアトル時代の幼馴染のお嬢さんに届けてもらいたいのです」
 「幼馴染の娘さんに?」
 「はい、長谷川喜代治(はせがわきよじ)という男の娘さんに、これらの医薬品と、そして、薬草の種類やその調合方法、処方箋などを書き留めた・・・」そう言って、鍵のかかった引き出しの鍵穴に鍵を挿し込み、回すと、「ガチャッ」とロックが外れる音がした。引き出しをゆっくりと手前に引き、中から黒い革の表紙のノートを取り出した。

 「この冊子(ノート)を届けてもらいたいのです」江下(えげ)は両手で大事そうにそのノートを持った。
 「これがあれば、どんな植物が薬草として役に立つか、どんな時にどんな風に処方すればいいかが分かります。」そう言って山口に手渡した。
 山口は、そのノートのページをめくった。
 「これは・・・」そのノートには植物の絵が細かく描かれ、その処方も絵入りで丁寧(ていねい)に書かれていた。そして、
 「インドのアーユルベーダ、チベット医学、漢方。これらを私なりに融合したものです」江下は自信のある声で言った。

 「この説明は英語と平仮名ですね」山口はページを繰りながら呟(つぶや)いた。
 「はい。娘さんにも分かるように書き換えたものです」
 「と言うと?」顔を上げ江下を見た。
 「娘さんは2世で、漢字がまだ苦手なようなのです」
 「ああ、それで」山口はノートを閉じ、両手で膝の上に置いた。
 「で、その娘さんはどこに?」
 「ネパールです」江下は窓の外に広がる青い空の向こうを見るように目を細めた。
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第18話 戦後は国会議員になり、その後、ラオスで行方不明になったという噂ですが [ミステリー小説]

金塊

 町は悲しみで覆われていた。

 和司(かずし)の盛大な葬儀から一ヶ月が過ぎた頃、江下寛一(えげかんいち)は旅支度を始めた。江下は和司が届ける予定だった薬品を自らが届けようとしていた。

 「江下(えげ)さん、その仕事、私にやらせて下さい」山口大河(やまぐちたいが)は江下に言った。
 「え、しかし・・・」机で薬品のリストをチェックしていた江下(えげ)は顔を上げ、困惑の表情を浮かべた。

 「このままでは私の気持ちが治(おさ)まりません。ぜひやらせて下さい。それに、江下さんが不在になると何かと不都合が起きるんじゃないですか?」
 山口にとって和司は命の恩人である。しかも、その命の恩人を殺したのが、何ヶ月か前に山口の命を奪おうとしていた男である。和司がいなければ間違いなく今の山口はいない。それに、テレサの死にも関わっている男だ。このままにしてはおけない。

 「・・・」江下(えげ)は、椅子に座ったまま、目を閉じて腕組みをした。 
 しばらくの後、江下(えげ)は山口の目を見つめながら立ち上がり、
 「分かりました。お願いします。ありがとうございます」山口の手を右手を取り、両手で覆(おお)うように握り締め、頭を下げた。
 山口もうれしそうに頭を下げ、左手を江下の手の上から握り締め力をこめた。

 江下は、山口に、そばにあった椅子に座るように促(うなが)し、自らも椅子に腰掛けた。そして、
 「ここで少し、私がやっていることをお話しなければなりません」と、改まった声で言った。
 「辻政信という男をご存知ですか?」
 「はい、確か旧陸軍の参謀でノモンハン事件やインパール作戦の立案者のひとりだと・・」
 そして、さらに
 「戦後は国会議員になり、その後、ラオスで行方不明になったという噂ですが、・・・その辻のことですか?」と続けた。山口には江下(えげ)が話そうとしていることとどういう関係があるのだろうかと思いながらも、部屋の隅にあったパイプ椅子を持ち、江下の近くに戻った。

 「そうです。実は、私が彼をラオスへ入国させる手筈(てはず)を整えたのです」江下は丸いすの上で背筋を伸ばしたまま言った。
 「えっ!?」山口はパイプ椅子に座りかけたまま江下の顔を見た。

 「彼が、国会議員の身分でありながら、その身分を隠し再びタイからラオスへ訪問した目的は、ベトナムに隠した金塊を手に入れることだったのですよ」江下は淡々と話し始めた。
 「それは・・・」山口の質問を遮(さえぎ)って江下はさらに続けた。
 「しかし、スパイ容疑で捕らえられ、その際には、ホーチミンと取引でもしようと画策したようですが・・・」そう言うと腕組みをして天井を見上げ、
 「その後は行方不明・・・ということになっています」そう言って再び山口の目を見つめた。
 「そのことと今回の私の仕事が何か関わりが・・・」
 「あります」
 「え?」



 「その金塊は私が持っています」江下(えげ)は顔を山口に近づけ、押し殺した声で言った。
 「えっ!?何ですって!?」思わず山口は身を仰(の)け反らせた。
 「全部かどうかは分かりません、しかし、それでも相当な金額になります」江下は両肘(りょうひじ)を両膝(りょうひざ)に乗せ、体をかがめて重い声で言った。
 「まさか金塊を運ぶのが仕事というわけじゃあ・・・」山口のうろたえは声に出た。
 「ははは、今回、山口さんにお願いするのは、私が調合した薬や医薬品です」そう言うと、山口の膝を「ポン、ポン」と軽く叩いた。

 「私はこの金塊で山岳民族を救いたいのです。アジアには虐(しいた)げられた山岳民族がたくさんいます。大国の陰で少数民族はいつも犠牲になっています」いつものように穏やかな口調に戻って話を続けた。
 「シッキムは独立に失敗しインドに併合(へいごう)されましたが、中国はチベットに侵攻し、何百万人ものチベット人を殺戮(さつりく)しています。その後もシッキムに手を出そうとしましたが、これには失敗しました」江下(えげ)は眉間(みけん)に皺(しわ)を寄せ、再び強い口調で言った。
 「しかし、彼らは狙っていますよ。様々の方法で」
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第17話 泥の流れは大地の切れ目を幾筋もの帯となり、時折り小枝や口の欠けた食器を運んでくる [ミステリー小説]

 和司は片目男の指が動く直前にトラックの荷台の中に転がり込みそのまま仕込み杖を掴(つか)んで反対側に飛び出た。まさに風の動きであった。

 突然、凄まじいスコールがやってきた。

 肌(はだ)をも射抜(いぬ)くほどの勢いで無数の雨槍(あまやり)は景色を縦に切り裂き、一瞬にして1m先も見えなくなった。村の道は見る間に泥川と化し、つい先ほどまで舞い上がっていた赤い砂埃(すなぼこり)は粘土の様に足に絡(から)まり始めた。

 男達は拳銃を発射し始めたが、天空から泥川に激しく水しぶきを上げて突き刺さる雨槍(あまやり)の中では狙いの定めようがなく、ただ、影に向かって闇雲に弾丸を発射した。

 和司は泥の中を前転しながら、以前は倉庫に使っていた家の裏に廻り込み、家畜の柵の補修用に保管されていた竹を仕込み杖でスパスパと斜めに切り、あっという間に数十本になった竹やりを小脇に抱え屋根の上に登った。 



スコールは長くは続かない。和司は、仕込み杖をベルトの背中側に差込み、竹槍をまとめて屋根の上に突き立てた。そして、雨でベッタリと体に張り付いた薄い木綿のシャツを引き裂き体の自由を確保した。

 男達はトラックの陰に身を伏せ、目の上に手をかざして和司の消えた方向を凝視した。雨はますます激しさを増して来た。鋭い刺激が体中に突き刺さる。その時ひとりの男が「ギャーッ」と悲鳴を上げて銃を放り投げその場に立ち尽くした。
 他の男には何が起こったのかわからなかったが、すぐに、降り注ぐ雨に混じって空から竹槍が降っているのに気付き、男たちの顔は恐怖にゆがんだ。最初に悲鳴をあげた男の足は竹槍で地面と縫い合わされていた。

 「ザーッ」という雨音(あまおと)の中で男たちの周りには次々と槍が突き刺さった。激しい雨音で男たちの怒声はかき消され、再び「ギャーッ!!」と言う悲鳴と共に、竹槍が肩に刺さった男が片目男の目の前に雨の幕を破って突き出てきた。

 片目男は、その男を突き飛ばし、トラックの車体の下に潜(もぐ)り込んだ。



 車体の下で伏せている男の体は半分ほど泥水に埋まっている。「ババババ」と絶え間なく叩きつける雨音に混じって、時折、「バシ、バシ」と荷台をも貫くような音が体に伝わって来る。

 和司は屋根から飛び降り、泥の川に身を伏せ、そのまま泥の塊(かたまり)になってゆっくりとトラックに近づいた。「ズル、ビシャ・・・」

 片目男は全身で周囲の音を聞いていた。連続して泥に突き刺さる雨音の中から「ビシャ、ビシャ」と生き物が泥の中で進む音が聞こえた。やがてその音は5m先で止まった。

 和司の前を覆う白い滝を通してトラックの影が見える。「ザーッ」
 全身を泥にしてジッとその影を見つめ、背中の仕込み杖に手をかけた。

 トラックのタイヤの陰から1つの目が1つの方向を見つめていた。その1本の視線の先には、白い雨飛沫(あめしぶき)で浮き上がった人間の体があった。 



 片目男は銃口を白く浮かび上がる輪郭に向けた。

 和司は、トラックの荷台の下の片目を確認した。そして、さらに深く泥の中に沈みこみ、右手で背中の仕込み杖を握り、左肘(ひだりひじ)と両膝(りょうひざ)で泥をかいた。「ビシャッ」

 一年に一度の猛烈なスコールであった。風もなく、ただ、ただ、一直線に空から地面に突き刺さる雨槍(あまやり)は地上の全ての音を掻き消し泥と共に流し去っている。

 しかし、片目男は、目の前の生き物が動く音を全身で捉えていた。「よし、もう少し来い」泥に浸(つ)かった唇の中の、硬く喰いしばった歯の中は渇ききっていた。

 和司は仕込みを、「シュラッ」と、抜いた。雨粒が光となって刃(やいば)を浮き上がらせた。

 片目男には、豪雨の中に浮かび上がった刃(やいば)はコブラが跳躍した時に見せる白い腹に見えた。

 引き金を絞った。

 「バンッ!!」スコールの中に乾いた音は飲み込まれた。



 右耳が一瞬にして吹き飛ばされるのと、和司が泥の中から立ち上がり、トラックに向かって走り始めたのが同時であった。

 「バンッ」2発目は和司の右膝を撃ち抜き、和司は体勢を崩した。
 「バンッ」3発目は和司の右脇腹を貫通した。
 
 倒れながらも両手で握った仕込みを荷台下へ突っ込んだ。「バシュッ」、タイヤを突き抜け、切先(きっさき)は片目男の頬をかすった。片目男は泥の塊になって反対側から転がり出て体勢を整え、4発目を発射した。「バンッ」

 「キーン」高い音と共に弾丸は和司が振り上げた刃に当たり跳ね返った。片目男の一瞬の怯(ひる)みを捉え、和司はタイヤを蹴って雨に向かって飛び上がった。
 「ニッポーンッ!!」
 気合と共に振り下ろした刃を、「ギンッ!!」、片目男はトカレフで受け止めた。雲の切れ間から差し込む夕陽が雨粒に濡れた仕込に映り込んだ。

 和司は上からギリギリとトカレフごと押し付け、左肘(ひだりひじ)を眼帯の左目に打ちこんだ。
 「グッ!!」片目男の力が一瞬抜けた時、片目男の手首をひねってトカレフを奪い、前蹴りをみぞおちに放ち、男を突き飛ばした。

 片目男は、泥の中を「ザザーッ」と3m先へ、泥の幕を拡げながら滑っていった。



 全身から泥水を滴らせ、片目男はゆっくりと立ち上がり、「ペッ」と、口の中の泥を吐き出し、左手刀(ひだりしゅとう)を前に、右拳(みぎこぶし)を腰に構えた。
 
 「素手で闘(や)ろうということか」和司は奪い取ったトカレフを投げ捨て、仕込みを鞘に納め、かつて、突きの練習に励んだ大木に立掛けた。

 雨は突然止み、薄日が差し始めたが、男達の足は依然として泥流(でいりゅう)の中にある。泥の流れは大地の切れ目を幾筋もの帯となり、時折り小枝や口の欠けた食器を運んでくる。

 「バーンッ」
 一発の銃声が夕陽の中に響き渡った。
 和司の放った竹槍で足を刺された男が両手でトカレフを握り締め、和司の後に立っていた。弾は背後から和司の胸を貫通した。

 和司はゆっくりと振り向き、大木に立掛けてあった仕込に手を伸ばした。再び、
 「バーンッ」非情な銃声が鳴り響き、弾(はじ)き出された薬莢(やっきょう)が泥の中に沈んだ。
 伸ばした手が仕込みに届く前に和司は大きく体をくねらせ泥の中に大の字に倒れた。バッシャーン。



 片目男は和司に近づき、無言のまましばらく見下ろし、跪(ひざまず)いて首筋に手を当て死を確認した。足を刺された男が、竹槍で体を支え、泥の中で足を引き摺りながら和司に近づき、「ペッ」と、和司の顔に唾を吐きかけた。「パンッ!!」片目男は男の顔を平手で殴り、和司の見開いた目を閉じさせた。

 薄茶けた無数の泡(あぶく)を浮かべた泥流(でいりゅう)は、ところどころで淀(よど)みながら赤い大地の表面を洗い流し終えると、いつものように消え去り、男達もトラックを大きく揺らせ去って行った。トラックが跳ね上げた泥水が斜面の下に身を隠していたメオにかかった。

  メオは恐怖で身動きが出来なかったが、ようやく和司のもとに駆け寄った。

 風が東から吹き、立て掛けてあった仕込杖(しこみづえ)が和司の体の上に倒れ、夕陽は、大木の裂け目から倒れている和司の体に射し込んだ。

 その赤い一筋の光は和司の眉間(みけん)から胸を通り、まるで和司の体をふたつに分けているかのようであった。
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第16話 あなたは、タイ人ですか、日本人ですか? [ミステリー小説]

死闘!!チェンマイ

 和司は江下(えげ)から頼まれた薬を届けるためミャンマー国境の手前にある、幼い頃に家族と共に過ごした村に立ち寄った。
 今回はいつもより少しだけ長い旅になる筈だった。

 和司は旅の途中、近くを通る時は、時々、この廃村へ立ち寄って一晩を過ごす。かろうじて和司達が寝起きしていた家屋だけが何とか夜露をしのげるのだ。今は、家族はチェンマイ郊外に独立した家を持ち、暮らしている。当時一緒に暮らしていた親戚の者もそれぞれが独立した家を持ち、畑を耕(たがや)したり、商売をしながら幸せな生活を送っている。

 一方で、玉木が和司に託した夢の実現のため、山岳民族の独立運動にも力を貸し、今は医薬品と食料の提供が主な仕事になっている。和司には難(むずか)しいことは分からないが、日本人の江下に力を貸し、共に働くことだけが自分自身の存在を確認する唯一の方法のように思えた。

 今回も仲間のメオと一緒にこの村に立ち寄った。
 トラックを村の入り口に停め、そこから、大きく枝を広げた木を見つめた。ここに立つと和司は、その大きく広げた枝の下で、郷戸(ごうど)と共に素振りをしていたことをいつも懐かしく思い出す。郷戸が村を去ってからも和司は「日本人」になるために、来る日も来る日もその木に向かって「突き」を繰り返した。

 その穴はやがて貫通し、穴は和司の成長と共に縦に広がっていった。そしてその木は今もこうして大きく枝を張り、青々とした葉は太陽に輝いている。
 和司はここで、今では大木となった木を見るのが楽しみだった。 



 メオは下の川へ水を汲(く)みに行った。和司はその間に夕食の準備をするつもりで、トラックの荷台から野菜と米の入った袋と鍋を取り出した。

 その時、トラックのエンジン音が道の向こうから聞こえてきた。

 空が急速に曇ってきた。 

 「誰だろう?」米袋と鍋を荷台に戻した。
 「こんなところまで来る人間はいないはずだ。道にでも迷ったのだろうか」と和司は思い、エンジン音のする方角を見つめ、郷戸(ごうど)が和司に残していった仕込み杖を、助手席から荷台に移した。

 トラックは、車体を大きくバウンドさせ、埃を舞い上げてこちらに向かってきた。そして、和司のトラックの後につけると「ブルルン」と大きく車体を揺らして停まった。

 舞い上がる薄茶色の埃(ほこり)の中から小太りの男が現れ、タイ語で「今晩ここに停めてもらえないだろうか?」と尋ねた。和司は、「いいよ」と言った時、助手席から左目に黒革の眼帯をした男が降りてきた。



 「これは偶然ですね。あなた方を捜していました」嬉しそうにそう言って、辺りを見回し、
 「山口さんは?」と言いながら、懐(ふところ)から拳銃を抜き出した。
 「山口さんは・・・死んだよ」和司は目の端で、最初に話しかけてきた男も腰のベルトから拳銃を抜き出すのを見た。荷台からも男が降りてきた。

 「死んだ?いつですか?」男は、怪訝(けげん)そうに眼帯の上の眉毛を動かした。
 「あの2日後だよ」和司はトラックのタイヤにさりげなく片足をかけた。
 「もし、そなら、私は幸せですが、証拠はありますか?」片目男は左手を、銃把(じゅうは)を握っている右手を包むようにして、胸元に構えた。
 「お墓もあるよ」
 「どこに?」
 和司は視線を左に向け、
 「この先の中国人村だよ」と言った。
 山の向こうから雲が近づいて来た。
 片目男は、和司から視線を逸(そ)らさなかった。
 「ふふっ、私は、そんな国民党の村には行きたくありません」
 「あなたは、タイ人ですか、日本人ですか?」片目男は不思議そうな顔をして聞いた。
 「・・・ボクはニッポン人だ」和司は銃を握る男の人差し指をじっと見詰めた。
 「残念です。私は日本鬼子(リーベンクイズ)が嫌いですから」そう言うと片目男は銃口を和司に向け躊躇(ためら)いもなく引き金を絞った。
 「バーン!!」
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第15話 テレサの葬儀は5月28日に政府要人も列席して国葬並みの扱いで行われた [ミステリー小説]

傷の状態は大分良くなり、咳と微熱も江下(えげ)の調合してくれる飲み薬で治(おさ)まりつつあった。

 この町並みには記憶があった。以前テレサと来た町だ。彼女がこの中国人町の存在を知り、どうしても訪ねたいと言い出し、いつも食事をしていたレストランのオーナーの案内で訪れたことがある。そして、彼女は、この辺境の地でたくましく生きている同胞を見て感動し、この町の学校にいくらかの寄付をした。

 山口は、彼女ほど感情の豊かな女性には会った事がなかった。歌っている時も感情が高ぶると大粒の涙を流した。そして、天安門広場の血の弾圧事件直前の香港でも、広島の平和公園でも。

 「起きていて大丈夫ですか?」山口の後から江下(えげ)の声がした。
 「ノックもせず失礼しました。お休みかと思いまして」ドアの前にトレーに薬を載せた江下が立っていた。
 「ありがとうございます。大分良くなりました。江下(えげ)さんのお陰です。命の恩人です」山口は椅子から立ち上がり深く頭を下げた。
 「いえ、いえ、命の恩人は私でなく、和司ですよ」そう言いながら、トレーをそばのテーブルの上に置いた。
 「そう言えば、最近見かけませんね」山口は、頭を下げながら、聞いた。
 「いま、彼には頼み事をしているんですよ」江下は、窓際に行き、カーテンを少し引いて光を遮(さえぎ)った。
 「頼み事?」
 「はい。調合した薬を届けに行ってもらっています」
 「少し遠くですから、まだしばらくは帰ってこないと思います」
 


 「熱はどうですか」そう言って江下(えげ)は山口の額に手をやって、
 「大分いいようですね。でも、もうしばらくは安静にしていてください」
 山口は、
 「はい。何から何までありがとうございます」と、深く頭を下げた。
 「じゃあ、お邪魔しました」江下(えげ)はそう言うと、中国語の新聞をベッドの上にさりげなく置いて部屋を出て行った。

 その新聞は、テレサの葬儀は5月28日に政府要人も列席して国葬並みの扱いで行われたことを報じていた。山口にはその報道は台湾が大陸の中国人に対して呼びかけたもののように思えた。

 「彼女の純真な心は最後まで政治の駆け引きに利用されてしまったのではないだろうか?」「時の流れに身を任せ」が追悼式(ついとうしき)に流されたという記事に、山口は、彼女の運命を感じた。


 いつもより長めのスコールが止んだある日、江下(えげ)が慌てた様子で部屋に入ってきた。
 「山口さん。タ、大変なことが起こりました」真っ青な顔をしている。
 「何ですか?どうしました?」山口はちょうど中国茶を飲んでいるところだった。

 「和司が、、、和司が殺されました」江下はそう言うと、頭を抱えてヘナヘナと椅子に座り込んだ。
 「えっ!?何ですってッ!!」手に持っていた湯飲みのお茶がこぼれた。
 「どう言う事ですか?」山口大河(やまぐちたいが)は、こぼれたお茶で濡れた湯飲みをテーブルの上に置いた。
 「和司と一緒に行ったメオがたった今ふらふらになって帰ってきて、和司が殺されたと言うのです」座り込んで青い顔のまま山口を見上げた。

 「和司とメオには、薬を届けるように頼んでいたのです」そう言って顔を伏せ、白髪の頭を抱え込んだ。
 「その途中で生まれ故郷の村に寄ったところ、誰かに撃ち殺されたと言うのです」
 「何故?一体何が起こったのですか?」あの和司は、ちょっとやそっとのことで殺される男ではない。
 「メオも取り乱してよく分からないのですが、中国人に襲われたらしいのです」
 「中国人?」
 「片目の中国人です」
 「!!」山口にはすぐに和司を殺した男の顔が浮かんだ。
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第14話 多くの国民党支持者も台湾に移ったが、同時に、ミャンマーやタイへ移動した者も多く、彼らは国境近辺に町を形成した [ミステリー小説]

片目の男は拳銃を掴もうと伸ばした腕を引っ込め、投げ出した体を2回転させ立ち上がった。そのまま腕を伸ばしたら拳銃を掴んだ腕は、鋭い一撃を受けていただろう。

 男達は3mの間(ま)を保(たも)った。
 やがて車やトゥクトゥクが異変に気がつき1台、2台と停まり始めた。

 片目の男は左目から血を滴(したた)らせながら低く腰をおろして左手を前突き出し、右手は腰に構えてジリジリと足を横に滑らせ間合いを計っている。棒を手にしている男は、再び八双の構えを取り、左足を半歩前に進めた。その瞬間、片目の男の左足が空気を切り裂く音を発すると同時にその左足をすくった。
 それは「ニッポーン!!」という気合で片目の男の左肩に棒が振り下ろされたのと同時であった。片目の男はそのまま棒を持った男の腕を抱え込み体をひねって腰を潜り込ませ、右腕を男の脇の下に差し込んで一本背負いをかけた。棒を持ったまま男は宙で回転して地面に蹲踞(そんきょ)の姿勢で降り立った。

 野次馬が増えてきた。

 「この勝負はまたにしましょう」片目の男は2、3歩下がり、地面に転がっている男を起こし、暗い路地裏へ姿を消した。



 黒い泥の中で手足を動かしているような感覚が山口を支配していた。
 「このまま闇の中に吸い込まれていくのだろうか?」薄く残っている意識の中で山口は泥と光の間でもがいていた。

 「山口さん、私は悲しいです」テレサはそう言った。ここはどこだ?そうだ、平和公園だ。テレサは慰霊碑の前で祈りをささげる老婦人の腕のケロイドをなでながら涙を流した。そしてテレサは闇の中に消えていった。そうだ。俺も彼女の後を追っていかなきゃいけない。足を闇の中に差し入れた。ん?あれは?神田(かみた)じゃないか?「おい、神田(かみた)」思わず声をかけた。

 激痛が右肩を襲った。
 「大丈夫ですか?」
 「ん?ここは?」
 「大分うなされてたね。でも大丈夫だよ。あなた頑丈(がんじょう)だからね」



 「気がつきましたか?」白髪の老人が入ってきた。
 「あなたは?」そう言いながら起き上がろうとしたが、体中に痛みが走り、力も入らない。
 「そのままで」と手で制し、
 「まだ無理をしてはいけません」老人は山口の体を支えながら寝かした。そして、両肩、左太腿、腹、と順番に包帯を取って、傷口を確認し、塗り薬を塗った布を交換した。
 「さ、これを飲みなさい」そう言いながら、緑色の液体が入った湯飲みを口元に持ってきた。
 「和司君」そう言うと、和司と呼ばれた男は液体を飲みやすいように山口の頭を支えて少し起こした。

 「ここは?」山口は液体を飲み干し、体を支えている男に聞いた。
 「ここは山の中だよ。あいつらもここまでは追ってこないと思うよ」そう言いながら山口の体をやさしく横にさせた。
 「あなたが私を助けてくれたのですか?」横になったまま、座っている男に聞いた。
 細身だが鍛え抜かれた鞭のような体はシャツの上からでも分かった。
 「助けたんじゃないよ。あいつらは、ボクの友達を殺したんだ」和司と呼ばれた男はつらそうに顔を伏せた。
 「じゃあ、あの時撃たれた人は・・・」
 「死んだよ」
 「すまない。私のせいだ」山口は顔を伏せた。
 「それは違うよ」男は顔を上げ、山口の目を見つめて言った。

 山口は急に眠くなってきた。
 「ゆっくり眠りなさい」白髪の老人の声が聞こえた。



 山口は、1ヵ月ぐらいしてようやく歩けるようになった。そして、だんだんと様子が分かってきた。

 山口のいる町は、中国人町であった。1949年の中華人民共和国の誕生に伴い、蒋介石(しょうかいせき)率(ひき)いる国民党は政府を南京から台湾に移した。その際、多くの国民党支持者も台湾に移ったが、同時に、ミャンマーやタイへ移動した者も多く、彼らは国境近辺に町を形成したのだ。
 今、山口のいる町はそのいくつもある町のひとつだ。住民達の容貌は他の町の住民とは明らかに違い、会話は中国語だ。
 そして、山口の傷の手当をしてくれている男は江下寛一(えげかんいち)という日本人であった。彼もまた数奇な運命を受け入れて生きていた。

 「山口さん。私はもともと移民でね。アメリカのシアトルで育ったんですよ」山口の傷の手当をしながら江下は身の上話を時々するようになった。
 「20歳前の頃、東京でオリンピックが開かれると言うのでね、日本へ帰ったら、戦争が始まってね。アメリカにも帰れなくなって、兵隊にとられて、朝鮮からビルマに回されたんです」
 「インパール作戦で負けて、ビルマ軍やイギリス軍に追っかけられて、やっとタイに逃げてきて、そのままここに落ち着いてしまったんです」
 「いまじゃ、こっちに女房も子供もいます」
 「実家が漢方屋だったもんで、見よう見まねで覚えた薬草の使い方がこのあたりの中国人に気に入られて重宝(ちょうほう)がられているんですよ」

 江下から途切れ途切れに聞いた話は、激動する歴史の中で過酷な運命を受け入れざるを得なかった若者の人生だった。
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第13話 山口の任務は被警護者を中国の拉致から守ることだった [ミステリー小説]

歌姫
 1995年(平成7年) 5月 タイ チェンマイ(郷戸がチェンマイにいた23年後)

 山口は任務に失敗した。何年にも渡り警護していた被警護者が死亡したのだ。台湾の世論をリードしている重要人物だった。ホテルからストレッチャーに載せられて搬送されている姿には生気(せいき)はなかった。

 ストレッチャーに顔を向けたまま目だけで辺(あた)りを窺(うかが)うと、通りの向こうの建物の陰からこちらの様子を見ている男達がいる。先月、香港からチェンマイに来る飛行機でも見かけた男達だ。

 「奴らだ」山口は直感した。「奴らが殺(や)ったに違いない」
 しかし、非警護者が死亡した時点で山口の任務は終了する。山口の任務は被警護者を中国の拉致から守ることだった。その意味では任務は「失敗」とはいえないかもしれない。
 山口は身の危険を感じ、今からチェンマイを去ろうと思った。

 メーピンホテルの前を左に歩き、服や民芸品などのみやげ物を売っている屋台が何百軒も続くナイトバザールの人混みに紛れた。  



 山口は自分の体調が悪いことに気がついていた。数ヶ月前から夕方になると時々微熱が出るようになっていた。今年に入ってからは特にその頻度が上がり、ほとんど毎日のように熱と咳が出る。
 今も、足元がふらつく。熱っぽい頭に左手を当てた時、
 「動かないで下さい」背後から硬いものを背中に突きつけられた。

 山口はすぐにそれが拳銃であることに気がついた。背後の男は、すばやく山口の腰、脇を探った。そして、ひとりが後ろからベルトを掴み、もう1人は利き腕の右腕を掴んだ。
 「動かないで下さい。山口さん」男は日本語で山口の名前を呼んだ。
 「全てはお見通しって訳か」軽く頭を右に回し顔を確認しようとしたが、グイッ、と銃口に力を込められて、後ろは向けなかった。
 「そ、です」冷たい声だ。
 「そのまま、ますぐ歩いてください」男達は3人だ。話している男は右後ろにいる。

 「山口さん。この先の川に沈んでください。さよならです」
 「ゴホッ、ゴホッ」山口は咳(せき)をした。
 「大丈夫ですか、山口さん。風邪、ひきましたか?」男は笑いを含んだ声で言った。それを聞いた二人も、
 「ふふっ」と笑いを漏らした。

 「熱い体には、川の中、ちょど、いいですね」
 「教えてくれないか?」山口は、ゆっくりと落ち着いた声で言った。
 「なんですか?山口さん」男は山口との会話を楽しむかのかのように余裕を持った声で応えた。
 「お前たちが殺(や)ったのか?」山口の声には幾分力がこもった。
 「違います。私達ではありません」と、男は、すぐさま否定した。
 「ん?じゃあ、お前たちは?」山口は立ち止まった。
 「私達の仕事、死んだ、の確認と証拠の隠滅です」拳銃を持った男が、グイ、と背中を押した。

 「証拠?」山口は右を見て男の顔を見た。
 「あなたです。山口さん。あなた、証拠です」男は髪の毛をきちっと七三(しちさん)に分けて整髪料で撫で付けている。
 「俺が?」そう言って再び立ち止まろうとしたが、後ろの男に押された。
 「死んだ、の確認しました。次の仕事、証拠の隠滅です」
 そして、冷たい声で男は続けた。
 「山口さん。あなた、隠滅したら、私達、タイのビールでカンペー(乾杯)します。ふふっ」



 「あんた、日本語うまいな。どこで習った?」後ろの男は右手でベルトを握っている。ということは銃は左手にあるということか。山口は現状を分析した。
 「ありがとこざいます。一所懸命(いっしょけんめい)勉強しました。国のためです」
 「教えてやろう。こういう場合は、俺は、証拠、じゃなく、証人、というべきだろうな」山口の右腕を握っている男の手は左手だ。
 「ありがとございます。山口さん。あなた日本に帰ったら、病院行きますね。熱、ありますから」
 さっきからペラペラしゃべっている男は、腕を握っている男の右後ろにいる。
 「そすると、あなたの体の中から証拠出てくるかもしれない。だから、山口さん。あなた、証拠です」
 「?・・・」
 「そうか!そういう訳か!」この時、山口は全てを理解した。

 「どこでやった?」いつ感染したんだろう、山口は記憶を手繰(たぐ)った。
 「分かりません」男は、静かに言った。
 「山口さん。あなた。あの人の巻き添えです。巻き添え、この言葉、正しいですか?ふたりが同じ病気だと分かること、都合良くないです」

 ナイトバザールの賑わいから外れて狭いビルの隙間に入った。この路地を抜けた先がビン川だ。



 男達三人が同時に動くことは出来ない狭い路地は山口にとって有利だ。山口は「今しかない」と思った。
 「ゴホッ、ゴホッ」と咳き込んだふりをして体を前に倒しながら左へ体を回し、左手で男の持っている銃の弾倉(れんこん)を握り、銃口を上へ向けた。銃は消音器付であった。男はとっさに引き金を引いたが、レンコンが回転せず発射できない。

 山口は、そのまま、体を回転させて、右にいた二人の男に銃を持った男の体を押し付け、レンガ壁に強くぶつけた。男達を壁に押さえつけると同時に、右膝を男のみぞおちにめり込ませ、前かがみになった男の後ろにいた男の鼻筋に右拳(みぎけん)を放(はな)った。
 その時、右後ろにいた男の右手刀が山口の左顔面をとらえ、左拳を顔面に向けて突き出してきた。山口はかろうじてそれを右腕で払った。男は右手を左懐に手を差し入れ拳銃を抜こうとした。男の顔面に隙が出来、そこを狙って山口得意の右正拳を放った。しかし、男は右手でそれを払い、左拳を突き出した。それは他の男達の体に邪魔され距離が不足していたものの、山口の顔面をとらえ、山口は鼻から生暖かいものが、バッ、と流れ出るのを感じた。

 山口は左手で掴んでいた男の手首をひねり、拳銃を奪い、右膝をもう一度拳銃を持っていた男の腹にめり込ませた。すぐに右肘を先ほど鼻を潰した男の左顔面に見舞うと二人の男は同時にその場に崩れ落ちた。

 山口が拳銃を抜こうとした男の眉間に銃口を突きつけるよりも男は一瞬速く拳銃を抜き出し、山口の腹に向かって発射した。
 「プシュッ!!」



 山口は後ろに倒れながらも右足で男の右腕を蹴り上げた。男の手からは拳銃が回転しながら飛び、2m先に落ちた。

 そのまま山口は反対側の壁に背を当てて座り込む格好になった。右手で腹を押さえ、左手の銃口は男に向けられている。
 「山口さん。強いですね。若いときは、もっと、強かったですね」男は両手を上げ、唇の左端を吊り上げながら言った。

 「ゴホッ、ゴホッ」顔が火照(ほて)る。
 「山口さん。血です。たくさんです」男は心配そうな声色(こわいろ)を使った。
 「どしてすぐ撃たないのですか?さきも、銃口をここに当て・・・」そう言って、左手を自分の眉間に当て、
 「・・・すぐに撃たなかったのですか。私、すぐ撃ちます」
 「ふ、俺は、お前と違って、人殺しじゃないんだ」
 「ありがとございます。助かります」
 「ゴホッ、ゴホッ」胸が苦しい。
 「大丈夫ですか?」男はそう言いながら、先に転んでいる銃の位置を目の端で確認した。

 大通りからは観光客の賑やかな声が聞こえてくる。英語、フランス語、日本語も聞こえてくる。遠くから客寄せのタイ音楽も風に乗って聞こえてくる。
 
 「山口さんの右の突き、強いです」男は顎(あご)で、腹を押さえている山口の右手を指した。
 「山口さん。右利きです。あなた、今、銃を左手で持てます」そう言うと、顔を大きく左右に揺らし、悲しそうな顔をして、
 「撃ても、当りません」

 「どうかな、ゴホッ・・・」
 山口は、背中を壁に押し当てたまま立ち上がろうとした。男は、男の足元で気絶している男を左足で蹴り上げ、蹴られた男が「ウーッ」と声をあげ、山口がほんの一瞬それに気をとられた時、男は右側方に頭から飛び、地面で1回転して落ちた拳銃を拾い上げた。
 山口は男に向け拳銃を発射した。「バン」、「チンッ」弾は壁に当って跳ね返った。



 山口は倒れこんでいるふたりの男の体の陰に飛び込んだ。
 「プシュ」「プシュ」
 男は仲間には構うことなく2発撃った。一発は倒れた男の腹に当たり、男は「ウッ」と低い声を上げ、苦痛で目を覚ました。

 もう一発が山口の左肩を貫通した。

 「山口さん。も終わりです」銃口を山口に向けたままゆっくりと立ち上がった。
 「そうだな。終わりにしよう」山口も銃口は男に向け、右腕を腹を撃たれて苦しんでいる男の首に回しこんで一緒に立ち上がった。
 「だめです。あなた、撃ても当りません。ほら、手、揺れています」
 「この男の頭なら飛ばせるぜ」銃口を立ち上がらせた男の頭に、ゴリッ、と、突きつけ、そのままの体勢で、倒れているもう1人の男顔面を右足で蹴り、悶絶(もんぜつ)させた。

 「ダメです。山口さん。あなた、さき、言った。人殺しじゃない、と」男は、ふふっ、と笑った。 




 「私、撃てます」そう言うと、「プシュッ」と、山口が楯(たて)にして抱えている男の腹に弾を撃ち込んだ。男の体重がズッシリと山口の右腕にかかってきた。
 山口は銃口を男に向けたまま、男に向かって、抱えていた男を突き飛ばし、建物の陰の中で前転しながら路地を抜けた。脇を「チンッ」「チンッ」と弾が跳ねる音と共に火花が飛んだ。

 山口は振り返って一発発射した。「バンッ」
 男は一発撃ち返した。「プシュッ」その一発が山口の左太腿を貫通した。左手を腹に当てるとべっとりとシャワーを浴びたように濡れていた。鼻から口に入った血を「ペッ」と吐き出したがすぐに流れ込んでくる。呼吸が苦しいのは、熱のせいだけではなかった。

 男も壁に身を同化させ陰の中でこちらを窺(うかが)っている。
 川の流れる大通りから一台のトゥクトゥクのエンジン音が近づいてきた。トゥクトゥクのライトが男の顔を照らした瞬間山口は大通りに転がり出て、脚を引き摺りながら走った。突然、右肩に激痛が走った。男の撃った弾が当ったのだ。そして、拳銃を川に落としてしまった。
 「しまった」

 「タタタッ」男が山口のすぐ後ろにまで迫ってきた。覚悟を決めた。山口は立ち止まり振り返った。山口の足元には夥(おびただ)しい血が滴(したた)り落ちている。



  男はゆっくりと近づいてきた。右手に持った銃のスライドは開いたままだ。
 「山口さん。私、8発も撃ってしまいました」そう言って、拳銃を川に向かって放(ほお)った。闇の中で「ボチャン」と音がした。
 「水はジュブンですね。首を絞めて、沈めます」そう言って「ふふっ」と笑った。

 男は上着を脱いで後ろに、スルッ、と、落とし、山口を睨(にら)みながら、両肩を回し、膝の屈伸運動を始めた。やがて、トン、トン、と軽く飛び跳ねながら山口に近づいてきた。
 山口も上着を脱ぎ、そのポケットからいつも持ち歩いている黒帯を取り出し、その黒帯で上着を胴体に巻きつけた。

 山口の両肩、左太腿には激痛が走り、腹からの血は止まらない。足元には血溜まりが出来つつあった。遠のいて行く意識の中で、「今までで最強の奴だ」と思った。山口は中段の構えを取った。



 男は軽く跳ねながら徐々に距離をつめ、右の回し蹴りを山口の左足に放った。山口が大きく左に傾いたところで、そのまま回転した男は左後ろ回し蹴りを山口の左頭部に打ち込んだ。かろうじて左手で防ぎ、左肩の激痛に耐えながら男の顔面めがけて右正面打ちを放った。しかし、男はそれを軽くかわしながら、左足を山口の腹にめり込ませた。「ゴフッ!!」山口は堪らず前かがみに倒れこんだ。

 男は、ポーン、と、山口を跳び越し、山口の背後から右腕を首に絡ませてきた。
 「グッ」しまった、山口は思った。
 「山口さん。あなたには、恨みありません」そう言いながら、山口の首に回した腕に力を込めた。
 「さ・よ・う・な・ら、山口さん」
 山口は息が出来るように両手を首に巻きつけられた男の腕と首の間に差し込んだ。しかし、男の力はさらに強まり、山口の意識は遠くなった。



 山口は、首と腕の間から左手を抜き、ググッ、と拳(こぶし)を握って、親指を立て、渾身(こんしん)の力を込めて自分の頭の後にある男の顔めがけて裏拳(うらけん)の要領で打ち込んだ。
 男は、「ギャッ!!」と、悲鳴を上げて山口の首に巻きつけていた腕を外し、左目に手を当て立ち上がった。目に当てた手の指の隙間からポタポタと血が垂れ始めた。

 路地から気絶していた男がふらつきながら出てきた。手には拳銃を握っている。山口の後に立ち、目を押さえていた男がなにやら中国語で言うと、その男は、拳銃を構え、通りに出てきた。

 その時、荷物を満載したトラックが「ビッ、ビー」、とクラクションを鳴らしながらその男の前で急停車した。運転席からタイ人が飛び出してきて、なにやら男に怒鳴っている。男はそのタイ人を殴りつけた。殴られたタイ人は地面に倒れこんだが、すぐに起き上がり、なにやら言いながら、ムエタイの構えを取った。
 同時に運転していた男も助手席から降りたが、目を押さえていた男が中国語で何か言うと、拳銃を持っていた男は躊躇(ちゅうちょ)なく、ムエタイの構えを取っていた男の腹に拳銃を発射し、そのまま、山口の方へ歩み寄り、銃口を山口の眉間に向け、引き金を引いた。

 「プシュッ」サイレンサーで消された発射音が山口の耳に聞こえた。



 発射音は山口の足元から聞こえた。
 助手席から降りてきた男が持っていた棒で腕を打ちつけたのだ。
 山口の意識はすでに朦朧(もうろう)とし、瞼(まぶた)は半分まで閉じている。
 その山口の耳にタイ語と中国語が聞こえてきた。その会話はやがて日本語に変わった。
 
 「邪魔をしないで下さい。そこの友達を早く病院へ連れて行きなさい」男は左目に手を当て、苦痛でギリギリと歯をかみ締めながら言った。
 「お前は日本人か?」八双(はっそう)の構えを取っている痩せぎすの長身の男は落ち着いた声で言った。
 「あなたにいう必要はありません」顔を下に向けながらも右目で男を睨み付けた。

 「その男は日本人か?」そう言ってトラックから降りた男は顔を山口に向けた。
 「あなたには関係のないことです」青白くなった顔がヘッドライトの中に浮かび上がった。
 腕を打ちつけられた男が左回し蹴りを放ったが、男がヒラリと身をかわすとその足は空を切った。空を切った足の脛(すね)は棒で打ち据えられ、体重の乗った右足が払われると、そのまま倒れ込み、隙だらけになったみぞおちに棒を持った男の右膝が落ちて来た。男は「グッ」という声と泡を吐いて動かなくなった。

 左目を山口に潰された男は、ころがっている拳銃を拾いに左へ飛んだ。男は棒を持った男は地面を蹴った。
 「ザッ」、「バシッ」

 山口はついに気を失った。闇の中で、
 「ニッポーン!!」と言う声を聞いた様な気がした。
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第12話 ボク、強クナッテ、日本人ニナルヨ [ミステリー小説]

 1973年(昭和48年)1月 タイ チェンマイ

 年が明けた。

 郷戸(ごうど)は、毎朝、子供達には素振りはさせているが、玉木から頼まれたことに返事はしていない。
 玉木もあれ以来そのことは口にしなくなった。
 「変わった男だ」郷戸は思った。国を作ろうなんて夢のまた夢だ。玉木にもそれは分かっているはずだ。

 郷戸は、最近、村の連中の荷物運びの列に加わってビルマとの国境近くの街まで行くこともある。

 「郷戸はん、パスポート出しなはれ」郷戸が山から帰るなりそう言った。
 「パスポート?」
 「今から、あの兄ちゃんがマレーシアへ行ってビザの延長をしてくれるさかい」そう言って、トラックの泥だらけのフロントガラスを洗っている男を指差した。
 「大丈夫なのか?」いつか、トラックを運転してきた男だ。
 「大丈夫や。蛇の道はヘビや」
 「あの兄ちゃんは、バンコクでワテが世話しとる兄ちゃんや」そう言って、おどけた格好で男に手を振ると、男もおどけて白い歯をむき出しにして「ハッ、ハッ、ハッ」と笑って、敬礼の格好をした。

 「一週間に一回はこっちに来よるさかいに、これからワテがおらんようになっても、あの兄ちゃんに頼み事したらええ。信用できるさかいな」そう言うと、男は理解しているのかどうか、顔の前で手を合わせてニコッ、と笑った。
 タイの人間の笑顔は心を和ませるものがある、と近頃、郷戸は思うようになっていた。

 「しかし言葉が・・・」
 「言葉なんか分からんでもかまへん」ハッ、ハッ、ハッ、といつものように笑いながら言い、
 「言葉が通じて字が読めても何にもならへん」と、手を自分の顔の前で大きく2度振った。
 「見てみいな。言葉が通じて、紙切れに約束事書いても、あっちこっちで殺し合いしとるやないか」口の端を上げて言った。
 「言葉は通じんでも、字は読めんでも、家族になるのが一番や。ハッ、ハッ、ハッ、せやろ、郷戸はん」



 「ま、いざと言う時には、ワテの息子がちょっとだけ日本語がしゃべれるさかいに、少しは役にたつやろ」
 玉木の息子は離れたところで、棒切れを持って素振りをしている。最近では様(さま)になってきた。棒を振り下ろすたびに「ニッポン!、ニッポン!」と、気合のつもりなのだろう、叫んでいる。

 「おーい、ナカッチャン」玉木はナカッチャンを呼んだ。
 ナカッチャンは、玉木に呼ばれると、本当にうれしそうに飛んでくる。郷戸の前で裸足の足をそろえて、
 「サワッ、ディ、クラップ」と手を合わせた。

 「ええか、ナカッチャン・・・」
 「和司ダヨ」
 「ええか、和司、一所懸命(いっしょけんめい)練習して、強うなれよ。強うなって、この村を守るんや。お父ちゃんもそのうち帰ってくるからな」
 「帰ってくるとは・・・?」郷戸は汗を拭きながら思った。
 「ウン、ボク、ガンバッテ、強クナッテ、オトウサンガ、帰ッテクルマデ、コノ村ヲ守ルヨ」
 「よし、よし、ナカッチャン、お前はホンマにええ子や」そう言う玉木の目には涙が浮かんでいた。
 「和司ダヨ」
 「せやったな。和司」そう言って、両手で、ナカッチャンの肩を抱いた。



 玉木は、ナカッチャンの肩に手を置いたまま、郷戸を見上げて、
 「郷戸はん。いよいよ、明日、ワテは連行されることになったんや」
 「明日?」
 「せや、あの兄ちゃんの情報や」と、トラックのタイヤの泥を落としている男のほうを見た。
 そういえば最近村の連中の行動がセワセワしていた。
 
 「あの兄ちゃんの情報は確かやからな」
 玉木のその言葉には覚悟が滲(にじ)んでいた。
 息子は静かに玉木の話を聞いている。
 「郷戸はんはここで気の済むまでゆっくりしたらええ」玉木は息子の肩に手を置いたまま続けた。
 「飽きたら、あの兄ちゃんがバンコクから来た時に一緒に帰ったらええんや」そして、息子の顔を覗(のぞ)き込んで、
 「ええか、ナカッチャン・・・」
 「和司ダヨ」
 「ええか、和司、この郷戸はんの言うことをよぉ聞いて、強い男になるんやで。日本の男はな、強ぉないとあかんねん」と、一言、一言、噛んで含めるように言った。
 息子も黒い顔を引き締めて、
 「ワカッタ。ボク、強クナッテ、日本人ニナルヨ」
 息子はそう言って、さっきまで素振りをしていたところに、タタタッ、と駆けて行き、再び、
 「ニッポン!、ニッポン!」と声を出して、素振りを始めた。



 翌朝、鶏(にわとり)が啼(な)くと同時に、タイ警察の人間が玉木の家屋にやって来た。玉木は明け方近くまで村の者と酒を飲んでいてちょうど寝入ったところであったが、
 「ちょっと支度するさかいに下で待っといてんか」そう言って、小ざっぱりとした服に着替え、昨夜から整えてあったカバンを1つ持ち、戸口まで歩み、
 「ほな・・・」と、振り返って部屋を見渡した。

 部屋の中には20人の女房達とその親や兄弟、姉妹達が暗い顔で立っている。春子は必死で泣くのをこらえ、夏子や秋子に脇を支えられている。
 階段をギシ、ギシ、と鳴らして降りると、女房達も後に続いた。
 玉木は、前後を制服警官に挟まれ、おとなしく車の停めてある集落の入り口に向かった。車は既に運転席を集落の外に向けて停めてあった、

 村の人間達は両脇に立ち並び、あるものは子供達の肩を抱き、あるものは顔を伏せて嗚咽(おえつ)を漏らしている。犬達でさえも何事かと列の中に入り込み玉木の様子を眺めている。

 ルミ子と沙織がパタパタパタ、とゴム草履を鳴らして、玉木達を追い越して車まで行き、車の中にいる警官に果物やら飲み物やらを渡し、何やら頼んでいる。
 階段の下に居た春子は耐え切れずに大声で泣き始め、それにつられて、他の女房や親戚達も声を上げて泣き始めた。
 「オーイ、オイ、オイ・・・オーイ、オイ、オイ・・・」

 玉木は車まで2mほどのところまで来て、耐え切れずに振り返り、
 「達者で暮らせよォー」と、振り絞るような声を上げ、タタッ、と四駆のトラックへ走りより、荷台に乗り込んだ。
 四駆のトラックは、マフラーを、ブルルン、と大きく揺らしてエンジンがかかり、一塊(ひとかたまり)の黒煙を吐き出し、ゆっくりと動き始めた。

 加速し始めるトラックの荷台から、ふと、いつもの大木の辺(あた)りを見ると、朝日の中で、郷戸とナカッチャンがトラックの方を向いて素振りをしているのが見えた。

 ナカッチャンの「ニッポン!、ニッポン!」の掛け声は、いつもより大きく、風に乗ってトラックを追いかけてきた。
 ナカッチャンの姿は玉木の瞳の中で揺れ、その掛け声は、玉木の心に刺さった。



 何日かして、トラックの定期便がチェンマイへ戻ってきた時、郷戸(ごうど)はドライバーから、パスポートと日本の新聞を受け取った。
 その新聞には、玉木はバンコクに連行されて間もなく、タイ政府から「公序良俗を乱した」罪で永久国外追放になったことが大きく載っていた。

 ここで暮らす玉木の女房達やナカッチャンはそのことを知っているのだろうか?彼らは、陽が昇る前から働き始め、普段と変わりない生活をしている。

 玉木は村のためにトラックを1台購入していた。女達は村の男が運転するトラックに乗って、一週間に何度かチェンマイ市街に出て、自分達が織り上げた布や、野菜を売っている。 
  男達は何週間も村を留守にすることがある。ビルマとの国境を越えて三八銃(さんぱちじゅう)を運び込んだり、密貿易をしたりしているのだ。



 チェンマイに来てから、半年が過ぎようとしていた。
 郷戸(ごうど)は、女達とチェンマイ市街に行ったり、男たちと一緒に密輸ルートを使ってビルマに行ったりしてこの村の滞在を楽しんでいた。

 反ビルマ政府の山岳民族同士の結束は固く、自由に国境を往き来できるルートがあり、お互いに協力し合って商品を流通させている。このルートを使えば、インドや、つい3年ほど前にパキスタンから独立したバングラデシュに入国するのも簡単のようだ。逆に村の男たちが帰ってくるときにはビルマやインドの男達が一緒の時もあった。彼らは、ビルマからヒスイ、ルビーなどの宝石から麻薬まで持ち込み、それを売った金でタイ商品やタイ国内に流通している日本製品を大量に買い込みビルマ内に流通させているのだ。

 たった半年の間に、ナカッチャンは、天性の敏捷(びんしょう)さと感のよさでめきめき腕を上げ、いまや、年長の少年でさえもナカッチャンに敵(かな)うものはいない。 最近では、ナカッチャンに「突き」を教えていた。
 ナカッチャンが、直径50cm程の木に向かって、「ニッポーンッ!!」の気合と共に突きを入れる姿には鬼気迫るものがあった。
 郷戸は、ナカッチャンが剣とムエタイを同時に使いこなすようになるまでにそう時間はかからないだろうと思った。

 ナカッチャンが日本人になれる可能性はない。ナカッチャンは、いつかそれに気がつくだろう。いや、もう気がついているのかもしれない。
 郷戸は、ナカッチャンが玉木の言いつけを守り、ひたすら練習に励む姿を見るのが辛(つら)くなってきた。
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第11話 いろんな部族、中には、中国共産党に追われて逃げて来た国民党の連中もいてる [ミステリー小説]

 1972年(昭和47年) タイ チェンマイ

 玉木の家は、チェンマイの市街からビルマ方向へさらに車で30分ほど山の中にあった。もう少し行くと、ビルマとの国境に接する地域だ。

 深くえぐれた轍(わだち)に溜(た)まった泥水を跳ね上げ、トラックの車体は、さながら荒海を行く小船のように揺れた。トラックが大きく揺れるたびに、ルミ子と沙織(さおり)が「きゃーっ、きゃーっ」と声を上げているのが助手席の開け放った窓から聞こえてくる。

 「郷戸(ごうど)はん、ほーら、着きましたで」と、指さす先にヘッドライトの明かりの中の高床式の家の集落が見えてきた。
 「この村に住んどるもんは、ぜーんぶワテの親戚や」
 「親戚?」郷戸は、体が跳ね上がるのを防ぐために窓枠を掴(つか)み、前を見たまま聞き返した。
 「せや。ワテの女房の親やら、兄弟姉妹やら、その親戚やら、中には他人も混ざっとるかもしれへんがな」玉木は顔を上下に揺らし、楽しそうに言った。
 「せやけど、かまへんねん」
 「あんた、一体ここで何をしてるんだ?」
 「何をて、あんた、・・・結婚生活やがな。ハッハッハッ」
 


 玉木はトラックから飛び降りると、
 「おーい、春子ーッ、今帰ったでー」と、大声を上げた。
 遠くからやや小太りの女が満面の笑みを浮かべて、足早にやってきた。暗くてよく分からないが、30歳くらいであろうか、大きな口の白い歯が印象的な女であった。

 子供達が、
 「きゃー、きゃー」と声を上げてトラックめがけて走ってくる。
 数匹の犬がその子供達を追いかけて子供たちの足にまとわりついている。
 そして、子供達はトラックの周りに集まって、タイヤに足を掛け荷台にあがろうとしているが、大人たちに引きずり下ろされた。
 いつもの光景なのだろう。大人たちは手馴れた様子で荷物を降ろし、近くの高床式の家に運び込み始めた。

 「どや、元気やったか?」玉木はそう言って、春子と呼んだ女を両手で抱きしめ、右手で尻をなでた。
 他の女達も玉木の周りに集まってきた。
 「郷戸はん、こっち来なはれや。紹介しまっさ」



玉木は春子と呼んだ女の肩に右手を回したまま、
 「これが春子や、最初の女房や」
 そして左手で女達を指差し、
 「こっちが二番目の女房の夏子、三番目の秋子は今ちょっと見えへんなぁ。ほんで、あれが四番目の冬子で・・・」
 「玉木さん、ちょっと待ってくれ、そんなに覚えきれん」
 「そうか?覚え易い名前にしたんやけどなぁ・・・」と額に垂れた髪をかきあげた。
 郷戸は、
 「あー、それで一番新しい女房が沙織か」と気がついた。
 「ま、こっちで飯でも食おう」そう言うと、ひときわ大きい高床式の家へ向かった。

 ギシギシと鳴る木の階段を上がり、木戸を開けると左手に大きな瓶(かめ)が2つ置いてあった。玉木は、そばにあった柄杓(ひしゃく)で水をすくい、それを飲み、残った水で手を洗った。郷戸もそれに倣(なら)った。思いのほか冷たくて気持ちがいい。

 その夜は、メコンウィスキーを飲みながら、玉木の女房達が料理した鶏のカレー煮込みと川エビを煮たもの、それにもち米を炊いたものを食べた。
 郷戸(ごうど)と玉木が食べている間、玉木の「親戚」が十数人周りを取り囲んで郷戸の食べる様子を興味深げに眺めていた。子供達は、郷戸が一口食べるごとに声を上げて笑った。 



  翌朝は鶏(にわとり)の声と米を炊くにおいで目が覚めた。鶏の声に混じって「バシッ、バシッ」という音がどこからか聞こえてくる。

 郷戸は食事の支度をしている女房達に頭を下げて、階段を降りた。昨夜は暗くて分からなかったが、かなり大きい集落になっている。あちらこちらで鶏が餌をついばんでいる。遠くに見えるのは水田であろうか。

 「バシッ、バシッ」と言う音は集落の外れから聞こえてくる。なんとはなく、その音のする方ヘ足が向いた。

 そこには、ムエタイのリングが拵(こしら)えてあった。少年達がムエタイの稽古(けいこ)をしている。幼いのは10歳くらいから、その子供達を指導をしているのが、25、6歳といったところだろうか。

 練習をしている少年達の中で一際目立つ少年がいた。幼顔(おさながお)ながらも背が高く目つきが鋭い。細い体はまるで革の鞭(むち)のようにしなる。

 「なんや、ここに居ったんかいな」玉木が後ろから声をかけた。
 「ああ」郷戸(ごうど)は振り向かずに腕組みをしたまま返事をした。
 「どや、ええ子やろ」
 「ああ」
 「強いでェ。ワテの息子や」玉木の自慢げな顔は声を聞けば分かった。



 チェンマイに来てから2週間ほどが過ぎた。
 こちらに来てからも毎朝1000回の素振りは欠かさなかった。そして、子供達も、日課になっている山での枯れ枝拾いから帰ると、郷戸のまねをして棒切れを振るようになっていた。

 そのうち自然に、郷戸は子供達に剣道を教えるようになった。
 そんな様子を見ていた玉木はある日、
 「郷戸はん。あんさんに頼みがあるんやけどな」と、いつものように大きな声で言った。
 「なんだ」汗を拭きながら玉木のいる木陰に入った。

 「ワテの子にな、あんたの剣術を教えてやってもらいたいんや」
 「剣を?」一瞬汗を拭く腕を止めて玉木を見た。
 「せや。ワテの子供はあの子だけなんや」そう言って、素振りをしている少年達のいる方を、顎(あご)でしゃくった。
 中に一際(ひときわ)背の高い少年がいる。玉木の息子だ。

 「だからといって俺が教える理屈にはならん。それに、俺の剣は人に教えられるような高尚(こうしょう)なものではない」汗を拭き終えてシャツを着た。
 「まぁ、そう言わんと。頼むがな。この通りや」と、手を顔の前で合わせ、
 「オーイ、ナカッチャン」と、少年を呼んだ。



 少年は玉木から呼ばれてうれしそうに走ってきて、郷戸(ごうど)の前で立ち止まり、
 「サワッ、ディ、クラップ」と手を合わせ、ニコッ、と微笑んだ。

 玉木は少年の肩を抱き寄せながら、
 「ナカッチャン、この兄(にい)ちゃんがな、お前に剣術を教えて下さんのや」と、少年にゆっくりと言った。
 「ま、待て、俺はまだ教えるとは・・・」郷戸は、シャツのボタンをはめる手を止めた。
 「ま、ええがな。ちょっと手ほどきしてくれるだけでええんや」玉木は郷戸の言葉を遮(さえぎ)り、
 「ナカッチャン、ようお礼言わな」と、少年の顔を覗(のぞ)いた。
 「ボク、ナカッチャン、ジャナイ。和司(かずし)ダヨ」少年は、玉木の顔を見上げて、唇を尖(とが)らせて言った。
 「おお、せやったな。よし、もうエエ、あっち行って仕事し」と、少年の肩を押して、追いやった。

 「あの子は、日本人に成りとうてな、自分で和司ゆう名前つけよったんや」そう言いながら右手を頭の後ろにやって、
 「まあ、ワテの血が入っとるさかいに、日本人や言うても嘘とちゃうがな」指先で首筋を掻いた。
 「しかし、無理な話や・・・」玉木は寂しそうに言った。



 「郷戸(ごうど)はん、おそらく、年明けにはワテは国外退去処分になると思う」と、いつもと違う厳しい表情で郷戸の顔を見た。
 「国外退去?」シャツのボタンをはめ終えると、郷戸は玉木の顔を見た。
 玉木は、
 「ああ、日本じゃ、ワテのことで騒ぎ始めとるらしいからな」片手を木にあてて体を預けた。

 「何の事情も知らんアホなマスコミのお陰や。ただ、ワテのことをおもしろおかしゅう週刊誌に書きまくって、ワテはそいつらの金儲けの材料にされてしもうたんや」と吐き捨てるような口調で言った。
 「おそらく日本政府がこっちの政府に圧力をかけとんのや。もうじき手続きは終了して捕まえにきよる」そう言ってタバコを足元に捨て、ゴム草履で、憎々しげに何度も踏み、2mほど先へ蹴飛ばした。

 「いま、ワテが国外退去になったら、ここにおる200人近くの人間の生活の面倒を見るもんがおらんようになる」近くにあった丸椅子を2つとりに行った。
 「それに、ワテの夢も中途半端なままで終わってしまう」椅子のひとつを郷戸の近くに置いた。
 「何なんだ、あんたの、その夢とやらは」郷戸は椅子には座らず、立ったままで聞いた。
 「ここに、こいつらの国を作ってやりたいんや」玉木は、ドッコイショ、と、椅子に腰を下ろした。



 「国?」何を言い出すんだ、と郷戸(ごうど)は思って、玉木の顔を見た。
 玉木はまじめな顔で、
 「せや。見てみ」そう言って、西の空を指差した。
 「あの空の下はビルマや。せやけど、タイやビルマやゆうても、この辺(あた)りに住んどるもんにとっては関係あらへん。空に線引きはでけんからな」木の幹に体を預け足を投げ出して、遠くの空を見つめながら続けた。

 「いろんな部族がタイやビルマと関係無(かんけいの)う、生活しとんのや。中には、中国共産党に追われて逃げて来た国民党の連中もいてる」ポケットからマルボロを取り出し郷戸にも勧めた。郷戸は、手を、イヤ、というふうに振った。

 「あの辺(あた)り一体はな、今、みんなが自分らの文化と生活を守るために命をかけとんのや」
 「ワテはそれの手伝いをしてやりたいのや」
 「手伝いを?」郷戸は、この男が分からなくなってきた。
 「これはワテ等の義務や」そう言いながら、マルボロを1本口にくわえた。

 「この辺りは、インパール作戦で負けてもうた日本人の兵隊さんがビルマからタイへ逃げてきた道や」
 「ここらのカレン族にとっては日本人は敵やったんや、その敵やった日本人が腹へったり、病気になったりした時にはな、助けてくれたんや」いったん口を、クッ、と結んだ。そして、
 「そのお陰で、今の日本があんのや。ありがたいこっちゃがな」と、続けた。



 「ついこの間までは、ワテも、そないなことは考えてなかった」マルボロの紫煙は緩やかに風に乗った。
 「それがな、ある時、ここの子供らがこの先の洞窟で、日本軍の残して行った小銃を仰山(ぎょうさん)見つけたんや」そう言って郷戸(ごうど)の顔を見た。

 「三八式(さんぱちしき)か?」
 「せや。どういう経緯(いきさつ)で鉄砲があんなとこにあったんかは分からん」そう言って大きく胸を膨らませて煙を吸い込み、フー、と吐き出した。
 「ここいらの人間に殺されたり、病気で死んだり、山賊に襲われたりして死んだ兵隊さんのかも分からん」煙の後の言葉はため息混じりになった。

 「しかし、そんなことはどうでもええんや。ワテはこの銃でカレン族に恩返しがしたいんや」自分に言い聞かせるように声が大きくなった。
 「そん時から、ワテは、日本軍が残していった銃やら、なんやらが見つかった言う話しがあったら、飛んで行っては買うてまんのや」ニヤッ、と笑った。

 「どうするつもりだ?」
 「ワテはな、その銃を、食料やら他のもんと一緒に、ここいら辺のカレン兵に渡してまんのや」ペッ、と唾を足元に吐き、
 「武器の密売か」という郷戸の言葉に、
 「密売とちゃう。タダでやってんのや」と、早口で応えた。
 「しかし、これは、トップシークレット、ちゅうやつや」冗談めかして、「トップシークレット」と言う言葉に力を入れた。
 


 「今、ワテが隠れたりしたら、捜査の手が入って肝心のトップシークレットがタイ軍やビルマ軍に知れてまう」吐き出した唾で湿った砂をゴム草履でザラザラと消した。

 「せやから、今は大人しゅう捕まるつもりや」顎(あご)を上に上げて、額に垂れた髪を後ろへやった。
 「後のことはワテの女房やら親戚やらに頼むつもりや」そう言って頭を木にもたれさせた。

 「それと、俺が、あんたの息子に剣を教えることとどういう関係があるんだ」郷戸は玉木の反対側にもたれて、顔を見ずに聞いた。
 「あの子にな、ワテの夢を継いでもらいたいんや」クルッ、と振り向いて郷戸の顔を見た。

 「あんたの夢を?」郷戸は、正面を向いたまま聞き返した。
 「せや、いざと言う時には自分の身を、家族を、村を守らなあかん」玉木は両手を膝に当て丸椅子から立ち上がった。
 「これから先、長い戦いになる。ワテがおらんようになっても、あいつには頑張ってもらいたいんや」パン、パン、と半ズボンの尻を叩いた。
 「あんたの勝手な思いだ」郷戸は早口でハッキリと言った。
 「そうかもしれへん。けど、それがあの子の運命や」左手を木にあて、郷戸の目を覗き込むように、
 「どや、頼まれてくれへんか?」と、言った。
 郷戸は返事をせずにその場を離れた。

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